柵原鉱山見学 その5


上に乗っている部分だけを見ると建物の一部の部屋のようですが
下を見ると車輪とレールがあるので動いていたのだと思われます。


トラックの流れの合間を縫って鉱石搬出口の下にやってきました。
大屋根にはちょっと穴が開き始めていて雨宿りには不向きです。


沢山の硫化鉄鉱が砕かれてここから鉱車に乗せられ
片上鉄道で運ばれていきました。

搬出口の下には硫黄分が水に溶けて黄色く染まりついています。
周辺の臭いも確かに硫黄臭いです。


昭和30年代、硫化鉄鉱の硫黄分から化学肥料の硫安を作っていました。
銅山でも脱硫装置で沢山の硫酸が出来る為に硫安は作られました。
そして石油の輸出が拡大した昭和40年頃、原油から硫黄分を取り除き
やはり硫安が作られるようになりました。

柵原鉱山の硫安精製はこの頃から需要を失いはじめました。


昭和32年に柵原鉱山で働いていた人は2523人。
人員整理と合理化の波が押し寄せ、昭和53年には106人にまで減りました。

町内には立派な総合病院が建ち、
3000人を収容できる久木集会所があり、
図書館、供給所、社宅も本当に沢山、沢山あったのです。

平成3年3月27日。
75年の坑内採掘が終わりました。
鉱山町の終焉でした。


鉱山の敷地を使って操業しているのは別の企業です。
今はこの企業が柵原町の主要企業として頑張っているのです。