面谷鉱山見学 その3

ここは何を掘っていた鉱山なのか役場で資料を集めるまで知りませんでした。
普段と同じく早朝からまず現場に入り、役所が開く時間になれば資料を集めに
行くというスケジュールでした。


ここが捨てられて80年以上経っても、草生しても、石垣の間に覗く煉瓦は
雄弁に語ります。犬島で見たものと同じ『カラミ煉瓦』です。
銅の精錬の後に出る鉱滓で作られた非常に重い煉瓦です。
その色は独特で見間違えようがありません。


『カラミ』と『カラミ煉瓦』が捨てられていた場所が少し上流にありました。
気泡で空洞がいくつも出来た鉱滓のかけらをひとつ拾いました。


この荒廃した風景は足尾でも見ています。
燃料として伐採された木。精錬の煙害で草の育たなくなった土地。
標高に似つかわしくない荒涼とした山肌。
雨の度に流れ出る自然な量をはるかに超える土砂。
山間は流出した土砂で悲惨な状態です。

この山を見て確信しました。ここには絶対に銅の精錬所があったのです。
先ほどの段になった建物の跡は選鉱場だったのか精錬所だったのか...。


段になった建物の跡地から曲がった道をさらに上がっていくと開けた場所が
ありました。そこに又、石碑が建っていました。「面谷の由来」の碑です。
前半部は土地の歴史を書いてあり、後半には鉱山に付いてかかれていました。
後半部を下記に記します。

明治四年に明治新政府よりの請負として村民の採掘が許可され、
杉村次郎と共同で鉱業社を設立創業した。そして明治十七年
秋田弥右衛門が、ついで明治二十二年三菱合資会社がこれを
継承し、本格的な近代鉱山の経営が開始された。
面谷は三菱合資会社が鉱山を経営していた明治二十二年から
大正六年頃までが全盛期であった。最盛期には六百戸・三千人
が住んでいた。大野町に電気が無い頃、既に面谷川の流れで
自家発電し、電話、電信も早くから開通し『穴馬の銀座』と
言われた。しかし、大正十一年、ついに閉山の止むなきに至り、
全住民は故郷を捨て、主として大野、名古屋、岐阜、東京、
その他各地へ離散し、現在は荒廃地と化してしまった。
隣にある墓地は、当時面谷に居住していた人々の先祖の墓である。

この石碑を読むうちに気分が重くなってきました。

・・・・・・最盛期には六百戸・三千人が住んでいた・・・・・・
・・・・・・閉山の止むなきに至り、全住民は故郷を捨て・・・・・・

鉱山が無くなったら鉱山町は消える。
でも少しは残る人も居ると思っていたのです。自分の故郷だったら..。
それが、全住民がここを捨てたのです。

平坦な耕作地がまったく無い峡谷。
林業を行なうには痛めつけられすぎてきた土地。
面谷鉱山の歴史は1058年の文献に名前を残すほどに古いものです。
ずっとずっと昔から鉱山だけを求められてきた土地だったのでしょう。

その鉱山が死んだ時、この地に人は残りませんでした。

残ったのは墓地だけなのです。
死者を祀り、生者はここで生きていけず土地は捨てられたのです。
住んでいた家も働いていた会社も見慣れた風景も、全てを置き去りにして...。