東の川 その7


割れて剥がれたリノリウムの板をぱりぱりと踏みしめて二階に上がります。


寄木で作られた教室の床は水を吸って跳ねたのか所々散らかっています。
あらぬ方向を向いておかれた机と椅子は一組だけです。


アコーディオンカーテンにぶら下がって遊んだ者でも居たようです。
一階の床とあまりにも様子が違うので、一階はやはり土砂が
流入しているのかと思います。


表に出てくると校庭をはさむ形で墓石と同じ形の石碑と
大きな石碑があるのが分かります。

初めて訪問した時は雨も降ってきたためにここまでで一旦引き上げました。


国勢調査によると上北山村の人口は大正9年に3296人。
終戦直後の昭和20年に2228人。
昭和30年に2543人。
昭和35年に3806人。
昭和40年に2007人。
昭和45年に1463人。

そして平成15年4月、人口は900人を切りました。
吉野熊野総合開発でダムが出来た後に確かに人口は減り始めています。
しかし林業において外国材の輸入が始まったのが昭和35年(丸太材のみ)で
昭和37年には木材製品が自由化、昭和39年には全面自由化となりました。
国内の林業が競争力をなくした後、人口が減っていることが分かります。

『東の川』だけの人口推移を見ると
昭和30年に375人で上北山村人口の15%を占めていたのです。
ダム建設の後、残ったのが23戸、人数は不明です。
平成9年の調査では世帯数3戸で人口は3人とされています。

ダムの建設と林業の衰退は微妙にずれています。
ダム建設の頃、木材は需要が非常に高かったのです。
村で林業に従事することは出来たはずなのです。

でもダムが原因で村は人を失ったのだと村にお住まいの方が言いました。
ダムの恩恵は無かったのかと聞くと、全てに於いてマイナスだという言い方を
されました。

「村にとって何より大切なのは人で、人口を失ったのはダムが原因だ。」
「ダム湖は山林と同様の税金なので宅地と同じ課税は出来ないから
村にとって損失の方が大きい。」
「ダム湖をレジャー開発しようにも水位の変動が極めて激しいので開発できない。」
「国の事業ということで当事の県議が全ての家を回って転出に同意を得たのだ。」
「古くから住んでいる土地を出たくなかったが国の為という事で了承したのだ。」

外国材の輸入による林業の衰退は人口が減る要因では無いのでしょうか。
ダムが出来なければ人口は減らなかったのですか。

「東の川」に限定していうならダムが原因で土地が水没したのですから
ダムが主原因でしょう。でもその土地に残らなかったのはダムのせいですか。
他の自治体の有するダムの水没に伴う転出の割合とここが明らかに違う事は、
この地区の高い転出率は何を意味しているのですか。

日本一の多雨地帯。
隔絶された土地。
自給自足が出来ない、耕作地を持たない生活環境。

ダムがきっかけになった。
ダムが出来なければここまで早く人は居なくならなかった。

そう言いたかったのでしょうか。


桜の頃にまた東の川小学校にやってきました。
暖かく春めいた曇天でした。
校庭の端に立つ、大きな『望郷立志誓之碑』を桜が彩っています。