東の川 その8

大きな石碑の裏側にはびっしりと文字が彫られていました。

上北山村東ノ川は、吉野山地の奥深く清流東ノ川の渓谷に沿いて、出口十六
戸、五味三戸、宮之平四十八戸、古川十三戸、出合十九戸、坂本七戸、大塚二
十六戸、の集落より成り、住民は素朴、篤実、温良、貞純、にして文化の悪風
を除外し、外辺を隔絶して相寄り相扶け平家の武者の隠れ住みしと口伝さる、
古より幽深の山気の中に幾星霜、外境を謳ひ今日にいたる。然るに国土開発の国
策による坂本ダムの建設は、集落一三二戸悉く見なぞこに没せしむ ああ国勢の
追展に寄興犠牲の誇りのみを以っては愛着惜別の情禁じ難し、住民各々志を立
て大成を期して他郷に四散し、克苦勉励、生を計り、業を成し、旧里の山河に
恥じずと雖も、透澄の水に銀輪光る鰙、山魚女、壁岸に素々花開く石楠花の
紅、悠々たる白雲、亭々たる巨木、事に触れ、想ふに従い望郷の念禁じ難し、
此処に東ノ川青年団解散に当り、祖先及先輩の遺徳を顕彰し、水没の諸霊、六
畜、虫魚の諸魂を慰め、他郷にありて常に清純の心を失せず、層一層業に励み
修養に勤め、家を治め、世に稗益し、子孫永く誓って故郷の山気清情に應えん、
と記念の碑を建立す、   願くは、我等が前途に光輝あらん事を。

                  尾鷲市 念仏寺 住職
                    総本山 知恩院長老
                        僧正 乗誉哲音 題
昭和四十四年七月吉日建立
         東ノ川青年団一同
代表者 宮本利棟(?) 南 卓次 仲 邦夫 南 佳(?)三 福屋孝次 宮本盛夫 福屋利次


校庭の反対側、校舎入り口の階段横にはこんな形の碑があります。
さお石といい、形は全く墓石そのものですが刻まれた文字は学校の
関係者の功績を称えた物でした。


高度経済成長の時期、多くの人は都心へと移動して行きました。
燃料革命が起きました。木炭の需要が減りました。
大量の電気の需要の為に電源となるダムの建設が進められました。

ここと同じように住人を失った地区は日本中にあります。
坂本ダムと同じく、電源開発の九頭竜ダム(福井県)では村が丸々沈み
実に2500人以上、世帯数にして500戸超の人口流出がありました。
その殆どがその土地から離れて他の地域へ、多くは名古屋方面に
転出したということなのです。

人が暮らしの至便性を求めてダム建設をきっかけに流出するという事は
不思議なことでは在りません。
現に、それで喜んでいる人も居ると、地元の産業とは無関係な流出もあると
あちこちの過疎地の役場で聞いています。

不便な土地からの人口の流出。
人を失った村。

この地に走っていた林業用のトロッコのレールも木材運搬用の索道も
今はその姿も、痕跡すら見つけることが出来ません。


小学校のすぐ近くにあるこの廃屋には梅の花の頃には
無かった物がありました。
選挙候補者のポスター掲示板です。
この土地にお住まいの方が居ることがこれではっきりしました。


曲がった道を進むとまた廃屋です。
護岸された沢筋にぽつんと立っていました。