東の川 その6


何度も土砂と雨水が積もっては乾き、固まってしまった、
ダム湖の斜面と同じ色が校舎の廊下にありました。


校庭の前の道の向こうには坂本ダムの湖面の緑が見えます。
この土地は『東の川』の「宮ノ平集落」の真上です。
現在もこの小学校のあるあたりは「宮ノ平」です。

当事『東の川』の中心的地区でした。
平らな土地が比較的広く、世帯数も最も多かった場所です。


「宮ノ平」にはダムが出来る前には29戸117人の住人が居たそうです。
この地区の主要産業である林業の関係の建物もあり、小中学校分校
簡易郵便局、旅館、公民館(青年会館)等が集中していたそうです。

この校舎のある場所の真下、今はダム湖に沈んだ集落地には
東の川小学校が建っていたそうです。すぐ近くに東の川中学校も
教員住宅も在ったそうです。


昔、小学校も中学校も持っていた地域でした。

明治43年に出合から宮ノ平までの約10km区間に林業用の
トロッコ軌道が建設されました。
戦後もこの土地は主要産業である林業と林業関連に従事する人の
割合が77%という林業主体の土地でした。


林業を維持できなくなったのはダムのせいでしょうか。
産業に対して水没保証が無かったということは無いはずです。

当事、昭和30年半ばは国内で大量の木材が必要とされていた
木材価格の高騰が在った時代です。

戦後、燃料として、住宅の建材として、林業従事者は爆発的に増えました。
戦後の人々の雇用と供給側の労働力確保は一致していました。
各地の山林を有する自治体に人々が移ってきました。
林業に従事していれば経済的には困窮することは無かった
のではないかと思われます。

それでも、そんな時期であったのに、この地から人は居なくなりました。

国内の木材価格の高騰は止まりません。
そして国は売り惜しみをしているとマスコミに叩きまくられ
外国材の輸入に 踏み切りました。

森林を維持することは昔から言われていました。
治山を重視しない 北米や東南アジアの森林と日本の森林は話が違います。
木はただ、切って売れば良いという物では在りません。
育てるのに何十年もかかるものです。植えながら切り出す本数を計算して
管理しなければあっという間に山は丸裸です。

そして日本の林業は競争力を無くして瀕死の状態に至ったのです。