東の川 その5


教室といわず廊下といわず落書きがものすごいです。
こんなことをして楽しい人は心が相当貧しいのかと思います。


この小学校の卒業生が見たらこの惨状を嘆く事でしょう。
ただ、その卒業生自体がここに居たのかそれが疑問でした。

坂本ダムと池原ダムの建設計画を含む「吉野熊野総合開発」で
『東の川』の全集落と耕地、河川沿いの山林は水没する事になりました。
この開発計画は現在では、まず不可能ではないかというほどの
大規模な物で、発電能力においても佐久間ダム・黒部ダムに次ぐ
国家プロジェクトでした。

そして住人は23世帯が東の川地区に残り、32世帯が上北山村内に、
53世帯が尾鷲市に、49世帯が奈良県内に転出したと文献に在ります。
(上北山村文化叢書 第四巻 「東ノ川」より)

23世帯。

奈良県には電源開発による巨大なダムが幾つもありますが
いずれもダム湖に水没した地区にお住まいだった方の転出先は
50%〜70%が同地区内になっています。

この地は他の地域より隔絶性が高く、あまりにも不便だった為に
残る人が少なかったのではないかと文献では推察されています。
付け替えられた道路を通っていても廃屋は数件しか見当たりませんでした。
家屋があったかもしれないスペースもわずかでした。

23世帯の内、この学校に子供が通っていた世帯は幾つあったというのでしょう。
教室に貼り付けられた歴史年表や植物の生育表、世界地図や漢字表を
見る限り、何人かは生徒が居たのかと思います。


あらまぁ。
それはそれは。
逮捕されてください。

上北山村には彼の教団の信者が潜伏していたとか報道されて
当事はかなり県警もぴりぴりしていましたから悪ふざけでやったの
でしょうけど、その悪ふざけはこうしていつまでも残ります。
何年もたって自分のやったことを目にして恥ずかしいと思う
成長がその人にあればと願うばかりです。


昭和38年という時代から考えれば十分立派だったと思われる学び舎です。
ダムの水没保証金が「有効」に使われたということなのでしょう。
一体何年使われたのでしょうか。


通う生徒を失ったのはダムのせいだけでしょうか。
この地に産業があれば、人はここを離れなかったのではないでしょうか。
なぜこの地だけ、他の地区より残る人が少なかったのか。

数十人が通うか通わないかの環境に鉄筋コンクリートの校舎が建ちました。
国家プロジェクトでした。水没保証は充分成されたはずでした。
この土地に家屋を移築するくらい、そのプロジェクトの規模から考えれば
造作ない事だったはずです。

つまり、住人が選んだ道はここを離れる事だったのです。