明延鉱山 錫の行方 その2

しょんぼりして明延の町を歩いている時にこちらのお店の前にやってきました。
お店の端に 「小部屋」と書かれた小さな看板とお部屋があります。

明延鉱山の資料を公開している資料室です。

この資料室を開いている方の事はお会いした事は無かったのですが耳にしていました。
神子畑選鉱場を調べ始めた時から何度もお名前を聞いていた鉱山関係者の方なのです。
明延鉱山の史料保存活動に熱心な方と聞いていました。

何度も来ているのに時間帯が悪いのか開いている時に遭遇した事がありませんでした。
扉が開いているのを見てお店の方に声をかけ、中に入れて頂きました。



入ってみると吃驚するほどの資料の山で驚きました。
操業していた頃の三菱の資料が膨大な量で保管されていたのです。


稼動していた頃の航空写真、社内報、鉱山マンの教育資料。
何時間読んでいても飽きる事がありません。
夢中で読んでいるとオーナーの方がお仕事からお戻りになりました。

明延鉱山の事を調べていますと申し上げたところ、ご自宅に招待してくださいました。
柿をご馳走になりながら色々なエピソードを沢山聞くことが出来ました。

デビュー間もない頃の島倉千代子(歌手)が明延に来て
三菱の厚生施設として在った協和会館という建物でコンサートをしたこと。
その思い出を追って島倉千代子が明延を再訪した時のテレビ番組のビデオを見せていただきました。

明延自然学校の成り立ちと現在の活用状況。
閉山の時の事。
鉱山マンが錫を使っての工芸品づくりを始めようとした事。
生野町・朝来町・大屋町が関わる明延鉱山の歴史。
「鉱石の道」プロジェクトの事。
政治的なごたごた。
足並みがそろわない産業遺構の保存。

聞いていて悲しくなるようなお話もありました。
でもそれはみんな明延鉱山が辿ってきた道なのです。

気がつくと3時間もお邪魔していました。
慌てて辞去しようとした時にお土産を頂きました。

半球の錫の塊でした。

重さは40gくらい在るでしょう。
閉山後に鉱山をやめた方々で錫工芸を始めようという声が上がったそうです。
インゴットのままでは扱いづらいので 小さい塊を造る為に、たこ焼器で作ったとの事。
何度もお礼を申し上げてお別れしました。
 


その後、時間が許す限り明延を見て回ろうとしていた時の事です。
遮断機があるズリ山の前で地元、兵庫のアマチュア写真家の方と出会いました。


その方もずっと神子畑と明延を写真に撮りつづけていると聞き、情報交換をしました。

「神子畑の中は御覧になりましたか。どんな風に感じましたか」

その方に問われた事に自分がいつも感じている事を伝えました。

「僕なんかはもうこんな歳ですから感じる事は自分と同じだという事なんですよ」

「いつリストラといわれるか判らない歳になりました。そんな時にあの選鉱場の中を見たんです」

「本当に全ての物がいつでも仕事出来ますといわんばかりに片付けられていました」

「毎日、明日リストラですといわれても大丈夫なように、きちんと身の回りの物を片付けて退社する
その風景と似ていましてね」

 

いつでも帰ってきてください
いつでも仕事できます
閉山してから17年経ちました
建物は確かに傷んでいます

でもまだ働けるんですよ


私が神子畑でずっと感じていた事。

でももういらないって言われてしまったんです


その言葉の重さに
その方の思いの深さに
私はしばらく声が出ませんでした。


 


お互い、鉱山関係者でもないのに
こんなに神子畑と明延の建物の配置から中に何が残って居るかまで
ツーカーで話が進むというのがなんとも不思議で
日がとっぷり暮れるまでお話をさせていただきました。
とても有意義な時間を過ごす事が出来ました。