多羅尾 その2


当時の新聞記事のコピーなどもラミネートされて置いてあったので
一つずつ見ていましたら・・
出てきました。
これが昭和28年8月15日の天気図。

集中豪雨の原因は寒冷前線です。
天気図の中で目立っている台風ではありません。
そしてこの台風↑、T5307は悪さをしませんでした。

40日後にやってきたT5313が再び大災害をもたらしたのです。

昭和28年8月15日 集中豪雨
昭和28年9月25日 台風13号(T5313)

わずか40日で二つの大災害が来ているのです。

8月15日の豪雨災害から復旧する前にT5313がきたために
ひとつずつを切り離して調べるのに資料を見ていても
何度も混乱しました。
「28災害」とひとくくりにされることもあります。
T5313で再び大災害がやってきたために集中豪雨の記録が途絶えるのです。

このT5313では各地の雨量観測データはしっかり記録を残しています。
そしてこのデータが淀川水系河川改修基本計画の元になりました。

◆ ◆


宇治川の守護・天ケ瀬ダムの洪水調節計画は
T5313級の降雨を元に計画されています。
この計画で採用されているのは流域平均のハイエトグラフ。


そして天ケ瀬ダム竣工翌年にやってきたT6524。
この時、天ケ瀬ダムは宇治を守るために7時間に及ぶ全閉操作をしています。
いきなりかーっ。
竣工していきなり全閉やるとかとんでもねーっ。

それはともかくこのT6524のグラフではハイエトグラフに
多羅尾の文字が書き込まれています。


多羅尾に降った雨が天ヶ瀬ダムにどのように影響するのかというと
多羅尾は大戸川の最上流部に当たるのです。
琵琶湖からの水は瀬田川洗堰でコントロールします。
洗堰でコントロールできないのはその下流で宇治川に合流する大戸川です。

天ケ瀬ダムはいつも大変な洪水調節をしなくてはならないダムです。
大戸川ダムがあればどれだけ安全度が増すか・・・。
とか思っているのは私だけではなく大戸川流域の人も同じ考えのようで
もし大戸川ダムができていたらT1318ではどれだけの効果を発揮したか
シミュレーションが発表されていました。


これは一緒に展示してあったT1318襲来時の信楽町内の記録写真です。
上流部でもこんなに冠水していたのです。
そしてこれらの水は大戸川に押し寄せ
瀬田川洗堰が全閉操作を敢行したにも関わらず
天ケ瀬ダムの治水容量を使い切らせるほどに
クレスト放流を余儀なくされるほどに流れ下ったのです。

T1318で大戸川は橋が冠水、橋のたもとで堤防が越水。
よく破堤しなかったものです。

多羅尾地区をはじめ大戸川流域の降雨の影響の大きさを感じます。

◆ ◆

昭和28年8月豪雨に話を戻します。

この豪雨により京都府の井出町では大正池と二ノ谷池という
ふたつの溜め池(土堰堤)が決壊し、その水が堤防を破壊しました。

災害直後に現場を調査した京都大学防災研究所の矢野教授は
 ・余水吐が小さすぎた(大正池)
 ・堰堤構築地点が構造上不適(大正池)
 ・天端中央が沈下していた(大正池)
 ・天端と余水吐の高さが同じ(二ノ谷池)
 ・余水吐に草が茂っていた(二ノ谷池)
と管理が悪かったことを含めて検証されています。

堤防が決壊したのは玉川という天井川でした。
地元では天井川を二階川とも呼んでいたようです。
古くから上流の土砂産生が多い川で
集落を守るために堤防を築いては河床が上昇することを繰り返し
周辺集落の二階の高さより河床が高かったそうです。

そんな天井川の堤防が切れたらどうなるか。

井出町の集落は瞬く間に水にのまれ
同時に流出した土砂で埋め尽くされたのです。

概要については京都府のHP内の「山城の災害記録」をご覧ください。

また、災害当時、500m離れた玉川から運ばれて来たという大岩が
JR玉水駅のホームに残っています。

JR玉水駅です。

奈良行きのホームに大岩がありました。

これがその大岩です。
横には詳しい説明書きがあります。

この石碑の文字を見て目を疑ったのは“時間雨量百五十ミリ”の記載です。
どこのデータなのでしょうか。
当時の国鉄が独自に持っていた雨量計が記録していたのでしょうか。
駅員さんにお聞きしましたがさすがにきょとんとされてしまって詳細は不明でした。

井出町図書館では南山城水害についての資料をまとめてくださっていて
当時の新聞をはじめ貴重な記録がたくさん閲覧できます。
文献も周辺自治体の図書館では一番集めてくださっているように思うので
南山城水害について勉強したい方はぜひ行ってほしいです。

◆ ◆

井出町の被害は天井川の破堤による洪水が大きな要因ですが
多羅尾地区では深い谷間の集落に多発した土砂災害が被害の要因でした。

井出町と地形的に大きく異なるのは多羅尾は深い谷間の集落だったことです。
大量の降雨と土石流がもともと低地・平地が少ない谷間を襲ったために
甚大な被害が出たのです。


現場で見せて頂いた多羅尾区編纂の多羅尾村昭和大水害誌の中の写真です。
見渡す限りの泥の海
谷を覆いつくした泥の海です。
これが土石流と洪水によって引き起こされたのです。

現在の多羅尾地区の川筋は災害後に付け替えられたもので
当時は今の場所より少し西の山裾を流れていたと
当日お越しになった地元の方からお聞きしました。

当時航空写真などがないか
国土地理院のサービスで探してみましたが見つけられませんでした。
きっとどこかにはあると思うのですが。


展示パネルで気になったこの石碑。

「これは近くにあるのですか?」

とスタッフの方にお聞きしたところ案内していただけることになり
いそいそと保育所の外へ。