横江頭首工 見学 その3


管理所玄関を入った所にどーんと展示してあるのが
旧・横江頭首工の定礎石。

物凄い立派。
物凄いでっかい。
こんなでっかい定礎石見たことないよ〜。

「おはようございます〜」
「おはようございます」
「これ、凄い立派ですね♪」
「ありがとうございます」
「新しい堰堤の横にこういうの並べて設置とかってしないんですかー」
「定礎石はひとつの施設に一つですからね。大事な物なのでこうして展示しています」
「そうなんですかー」

定礎石ってそういう風に扱うんですね〜。

しかしこの定礎石の大きさ、立派さに
この地の人が横江頭首工に込めた願いの大きさを感じました。

地元の人の気持ちっていろんなところに現れますが立派な石碑が立っていると
この地の人に本当に大切に思われて作られたんだろうなと思うのです。

どこでそれを一番感じたかというと
香川県の豊稔池だったりします。
あまりの巨大さに吃驚しました。


管理所の廊下には常願寺川についての説明展示。

常願寺川は元々、恵みをもたらす比較的穏やかな川でした。
それが国内トップクラスの暴れ川に変わったのは
安政の大地震(1858年4月9日 推定マグニチュード7)が原因でした。


常願寺川の源流の立山で大鳶山と小鳶山のふたつのが崩壊し
4億立方メートルもの土砂が常願寺川の支流を堰き止め河道閉塞(天然ダム)を形成したのです。

これは当時から“山抜け”として知られる事象でした。

そして人々は常願寺川の水量が1/5ほどに減ったのを目にして
山津波・土石流が来る事を感じながらも避難する以外のすべを持ちません。

そして融雪水と余震により、山体崩壊から数日が経過した4月22日
形成された河道閉塞部は突然破れ激しい地鳴りと共に
下流に土石流が押し寄せたのです。

この土石流により常願寺川は天井川となり
毎年、洪水を引き起こす危険な川へと姿を変えたのです。


洪水の被害は常願寺川の流れの関係で左岸に顕著でした
そのため、多くの村が左岸から右岸に引っ越しをしました。

そして1891年
この地に治水の父 ヨハネス・デ・レーケが訪れます。
「治山無くして治水無し」という信念のもとに
日本各地で砂防事業の指導にあたりました。

デ・レーケは立山の崩壊地を目にしてあまりの凄惨さに
『全ての山を銅板で覆わねばどうにもならない』と漏らしたと伝えられています。

立山カルデラに対しては手の施し様が無いと結論を出したデ・レーケですが
富山市内の洪水対策として
 灌漑用水の合口化
 堤防築堤
 支川白岩川の分離
 川幅の拡張
を提案しました。


デ・レーケが訪れた時、常願寺川には23ヶ所もの取水口が有りました。
この取水口が流れを滞らせて土砂が堆積し、河床を高くしていたのです。

この用水の取水口を上流で一ヶ所にまとめて取水した後に分配するという事で
洪水のリスクを減らそうとしたのです。

国内で初めての合口化事業。
国による立山カルデラ砂防事業


それらが実を結び
その後、常願寺川流域は素晴らしい米どころとして復興していきました。


そして現在、富山平野の灌漑用取水を一手に担っているのが横江頭首工なのです。


管理所で横江頭首工の詳しい説明をお聞きしてから堤体へ。

少しお天気、回復してきました。風は相変わらずですが。


この説明板に注目。

常願寺川沿岸地区 国営総合農地防災事業

と、書かれています。

横江頭首工は灌漑用水を取水するだけがお仕事ではありません。
農地防災を役目に持っているんです。

「前の頭首工は洗掘や土石で何度も深刻なダメージを受けたんですよ」
「そうなんですか・・常願寺川ですもんね。凄いサイズの岩とか流れてくるんですね」
「はい。前の頭首工との違いの一つはこの写真にあるようにゲートピアの数にも表れています」
「あ、今のはピアが少ないですね。
たしかピアの数が多いほど上流の水位が上がるし流れが悪くなるんでしたよね」

「そのとおりです」

以前勉強したことが見学で役に立つとちょっと嬉しい。


そしてじわじわと近づきます。

出来たての真っ白コンクリート。
この水路の美しさ。
水量は半端なく多いし
見ていて嬉しくなっちゃいます♪