九頭竜ダム 奥越電源開発 その6

そしてまたまた福井県で別の資料を閲覧していた時です。


こんな図を文献の中に見つけました。
電発案 とあります。

そして


その下にこんな図があったのです。

北電?
北陸電力?

え・・

こ、これ

九頭竜ダムや

北電が九頭竜ダムってどういう事〜!?

何年も九頭竜ダムに、このエリアに来ているのに全然知りませんでした。
地元の方にびっくりして伺うと当然のようにご存知でした。

九頭竜ダムは二つの会社が計画を立ちあげていた場所だったのです。

北陸電力と電源開発がこの場所にダム建設の計画を発表したのが昭和32年(1952年)の春。
電源開発は翌年さらに大規模な計画を発表したとあります。

2社競願のかたちで始まった電源開発計画。

それぞれの計画はどうなっていたのでしょうか。



北電案にあるダムは長野(九頭竜)ダムと後野ダム。
電発案にあるダムは九頭竜ダムと葛ヶ原ダムに取水用のダムとして石徹白川に取水堰堤。


現在の地図で確認されるのはこのように
九頭竜ダム・鷲ダム・石徹白ダム・山原ダム・仏原ダムです。
これ以外に高さが足りないのでダムは名乗れない取水堰堤として
智那洞ダム(H13.0m W70.0m)と、三面ダム(H9.5m W60.0m)がエリア内にあります。

北陸電力が計画していたのは
堤高113.0mの長野ダム(重力式)と堤高79.0mの後野ダム(重力式)
さらに堤高32.0mの葛ヶ原ダム(調整池)でした。

電源開発が初期に計画していたのは堤高125.0mの長野ダム(ロックフィル)と
堤高60mの葛ヶ原ダム(重力式)と堤高50mの勝原ダム(重力式)でした。
しかしのちに葛ヶ原ダムをアーチ式に変更という事になっています。

計画発表当初、受け入れ側は意見が二分されました。

福井県は地元の企業である北陸電力を推しました。
そして水没する和泉村は電源開発を推しました。

和泉村で電源開発を推す声が多かった理由は
主要堤体である長野(九頭竜)ダム自体はどちらも同じ場所に計画しているが
電源開発案の方が堤高が高いダムを計画しているので水没区画が増えること
電源開発が北電よりも資本金が大きい企業であったため補償が確保されると考えたこと
などがあったようです

北電案で石徹白川に後野ダムができると水没してしまうことから
同じ村内でも石徹白地区の住人は北電案を支持したようです。


なぜ水没する村の住民がより大きい、水没区画の広いダムを選択したのかは後に書きます。



両者譲らず競願の形で提出された計画はもめにもめましたが
結局、昭和36年(1961年)に通産省の調停案が提示され
電力界の四長老が両社に「長老裁定」と呼ばれる勧告書を出した事でようやく決着しました。


通産省が提示した調停案です。

主要堤体である長野ダムは電源開発がロックフィルで建設
下流の発電は北陸電力が行うという事になっています。

この調停案では図のように後野ダムも開発されることになっていました。