九頭竜ダム 奥越電源開発 その7

福井県で調べきれなかったことをさらに大阪の図書館の所蔵文献で調べました。
以下の図は北陸電力発行の『北陸地方電気事業百年史』に掲載されていたものです。


計画当初の電源開発案と発電量詳細です。


計画当初の北陸電力案と発電量詳細です。

しかし通産省の調停案や電力界四長老の勧告案と
実際になされた工事は異なるものになりました。


最終工事案です。
@九頭竜ダムは当初計画より5m高くして石徹白川の流水は三面から引水し
 九頭竜ダムの下流に設ける鷲ダムを下池として揚水式の長野発電所を設置し22万kWの発電を行う
A鷲ダムで逆調整した水は石徹白川の残流をあわせ湯上発電所で5万4000kW、
 西勝原発電所で4万8000kWの発電を行う
B長野、湯上の両発電は電源開発が、西勝原第三発電所は北陸電力が事業主体となって開発し所有する
という説明が書かれていました。

現在の地図を見ると後野ダムの建設はなくなり
代わりに山原ダムと石徹白ダムと智奈洞取水堰堤、三面取水堰堤があります。
葛ヶ原ダムはなくなり鷲ダムと仏原ダムがあります。

これは調停案が出された直後に旧建設省が長野(九頭竜)ダムに治水効果を持たせ
多目的ダムとして開発するように命じたことと水力発電から火力発電への転換が全国的に起きていて
揚水にすることが条件に入ってきたことが関わってきていると思われます。


九頭竜ダムについてはwebでも色々情報が出ていますが
今回の訪問では水没保障について詳しいことを調べたいと思っていました。

各地で水没した区画の紹介をしている説明板を見るたび
九頭竜ダムのことを思い出すからです。

ダムを勉強し始めて最初の頃に知ったという要因が大きいと思います。


九頭竜ダム建設では実に20の集落、464戸、2700人余りが移転しました。
当時の和泉村には33の集落がありました。
その6割に当たる数です。
ここには水没集落だけではなくダムができる事で隔絶し辺地になってしまう
集落の数も含まれています。

奥地残存 5集落88世帯。
これらについては県が残存をはかろうとしましたが
住民は転出を強く希望したために水没区画の住民と同じだけの補償をすることになったものです。

また、北陸電力が計画していた後野ダムができると考えていたために
山林の手入れなどをしなかっものが、ダムが作られないことになったので
その間の補償を要求する声が石徹白村の三面、小谷堂集落の2集落23世帯で起き
結局こちらも転出を希望したために水没しないにもかかわらず補償がなされることになりました。

和泉村史によればこの電源開発で和泉村から離村した人の数は
『昭和39年から41年までの間に上穴馬村地区の全村落
下穴馬地区の長野・鷲・旧石徹白村の三面・小谷堂を加えた
計17村落、525世帯、二千数百人であった』という記載があります。

転出先については隣の岐阜県に263世帯
愛知県に168世帯
福井県に62世帯
            と続いています。
静岡県に7世帯
大阪府に6世帯
京都府に4世帯
埼玉県に3世帯
千葉県と三重県に各2世帯
東京都、群馬県、長野県、富山県、石川県、滋賀県、兵庫県、和歌山県に各1世帯
別の資料では500世帯余りというあいまいな表現で書かれているものもあります。

特に世帯数については464と525では違いが大きすぎるので
この辺りの数字が文献や資料によって異なるのが気になるところなのですが。
純粋に水没区画を数えただけのものと奥地補償等の数を足したものとの違いでしょうか。

和泉村は昭和31年に上穴馬村と下穴馬村とが合併してできた村です。
さらに昭和33年には隣の石徹白村の三面、小谷堂地区が和泉村に編入されました。

石徹白村は岐阜県の白鳥町との越県合併を進めていましたが
石徹白川の水利権の関係もあり、福井県としてはどうしても県内にとどまってほしいという
希望があったため分村という特異な方法で県内に残った地区です。

このできたばかりの和泉村に奥越電源開発という大事業の計画が伝えられたのが
昭和32年のことでした。
石徹白村の三面、小谷堂地区が和泉村に編入される前という事になります。


合併してできたばかりの村
それが水没することに村の人はどういう受け止め方をしたのか


九頭竜ダムによく行くようになってから見聞きしたことの中には
色々不思議に感じる事柄が多くありました。

その一つは沈んだ地区の人がほとんど村に残らなかったという事です。

◆ ◆

これを不思議に思っていましたが
各地で廃集落の歴史を調べているうちに捨てられてしまった理由として
  地元での産業が困窮したから
  豪雪・豪雨などの自然災害で打撃を受けたから
  子供の就学などが僻地では困難だから
など、いろいろな理由があることを知りました。

和泉村は面谷鉱山をはじめ中竜鉱山など鉱山業が盛んな場所でした。
たしかに陸の孤島と呼ばれ、周囲から隔絶された僻地でしたが
面谷鉱山は水力発電設備を持っていたために福井市街の人々より
早く電化が進んだエリアであるという特異な面も持っていました。
           ※面谷鉱山水力発電設備
             面谷川の水を1.3Km木樋で引き36mの落差で80馬力のペルトン水車を動かし
             ゼネラル・エレクトリック社製三相交流50kW発電機を稼働していた。
             明治31年に運転を開始した。


しかし和泉村でもっとも重大な事は産業よりも自然災害の方であったのです。

台風による水害と豪雪

村を壊滅に追い込むほどの災害がありました。

これで実際に廃村となってしまったのが隣の真名川ダムにあった西谷村でした。
国内で数少ない“自治体規模で消滅した村”です。
38豪雪と奥越豪雨で廃村に至りました。

「雪おろしのない所に住みたい」

切実な願いでした。
そしてそこにダム建設の話が来たのです。

    「ダム建設が契機になって雪のない場所に住む事ができる」

これが自分たちの住む村を沈めてしまうダムであるにもかかわらず
計画がより大きい方を支持した理由でした

そして人々が保証を手に出て行った先は多くが太平洋側でした。



雪がすべての原因だったのです。


美しい水をたたえる九頭竜ダム


豪雪の年の融雪は出水を呼びました
台風は水害をもたらしました

雪と水と戦っていた村


その村がダム湖に沈みました。

水力発電ダムの建設に適した場所。
それは同時に
気象に生活の基盤を何度も何度も崩されそうになってきた
過酷な生活の場でもあったのです。



ダムがこの場所にできて39年目。

遅い春がやってきました。
この村を出て行った人も故郷を懐かしんでダム湖畔に桜を見に訪れることもあるでしょう。
今は雪下ろしをしなくてよい生活になったことを喜ぶ気持ちと
故郷が二度と陽の光を受けることのない水底に沈んでしまったことを悲しいと思う気持ちは
共存しても不思議はありません。



沈む村に望まれてできた

九頭竜ダムはそういうダムでした。

 

参考資料
『電発30年史』
『北陸電力10年史』
『北陸地方電気事業百年史』
『和泉村史』

特別資料提供:くまくま様
ありがとうございました