大畑瀞 〜 風屋ダム 見学 その2

大畑瀞には徒歩で行くつもりだったのですが
地元の方に地区内でどこか車を止めて良い場所がないかと
お聞きした時に車で行くことができますから現地までどうぞと
教えて頂き、そのまま車で進みました。


細い道をゆっくり進んで行くと静かな湖畔に出てきました。
この先で道路が無くなっています。

天然ダム 大畑瀞に到着したようです。

大畑瀞の形成の由来はwebで検索すると出てきますが
残念な事に気象庁のHPには当時のデータが公開されていません。
この堰き止め湖ができたのは一世紀以上前なのです。

国土交通省のHPで検索したところ、水害のデータが見つかりました。 ↓ 国土交通省のHPより

明治22年8月の水害は甚大で、十津川郷(現在の十津川村)
では1,080箇所もの山岳崩壊が起こり
土砂でせき止められた湖が37箇所もできました。

十津川郷は当時、6ヶ村、2,400戸、13,000人の村でしたが
北十津川村と西十津川村で特に被害が多く発生しました。

北十津川村の高津では、幅870mほどが山頂から崩れ
十津川をふさぎ、高津でせき止められた水は
高さ数十mの激流となって4〜5qほど上流まで逆流し、死傷者が続出しました。

十津川郷のあちこちでできた土砂でせき止められた湖のほとんどは
その日のうち(真夜中)に決壊し、新湖の下流では
いったん洪水が収まっていたところに
湖の崩壊で一気に洪水が襲ってくるという現象が同時多発的に起きました。 

河口の新宮では、8月19日の晩から増水しはじめ
熊野速玉大社付近まで氾濫し、その後、いったん減水しましたが
8月20日午前1時頃から急速に増水し
未明から昼にかけて新宮町内(当時)一円が濁流にのまれました。

十津川郷での新湖の出現と崩壊の影響が時間差を伴って新宮を襲いました。
この水害で、十津川郷の600戸、約2,500人が、住み慣れた村を離れて
北海道に移住し、新十津川村ができました。

天然ダムと堰き止め湖のほとんどはここに書かれているように形成された後に
崩壊して大災害を起こし、消失しています。

大畑瀞はそんな37カ所の堰き止め湖のうち
現在も残る唯一のものです。


堰き止め湖の上流方向を見たところです。

なぜここだけは崩壊しなかったのかというと
地形と地質が大きく関わっているようです。

天然ダムが崩壊するかどうかは
川をせき止めた土砂の量
堰止められた川の水流・流量
で決まってきます。

小さな谷で流量が少ない川を大量の土砂が堰き止めてしまった場合
その土砂の量が圧倒的に多く、その場所で安定してしまうほどの量であった場合
堰き止め湖はできますが必ずしも崩壊するとは限りません。

また、伏流水という水の流れが関わっていて
土中に浸透して、崩壊土砂に影響が少ない水の移動がある場合は
流入量と流出量のバランスがとれて崩壊土砂と堰き止め湖がそのまま残ることになります。

大畑瀞はこうした偶然が重なって現在も残っているのです。


訪れた3月に水位はこのように低く
湖畔には横倒しになって長く経つ樹木もありました。
水位が上がればこの枝の緑はどんなに美しいでしょう。


赤い魚影が移動していました。
誰かが鯉か赤鮒でも放流したのでしょうか。


天然ダム本体はというと100年以上経過して
すっかり山の一部になっており境界もわかりません。

ダム湖に面したこの辺りは天然ダム上流面の一部である
という当たり前のことだけしか確認できませんでした。