大江山ニッケル鉱山見学 その3 


煙突だけしかないので鉱山の詳細が不明です。


三本並んでいる煙突を撮ろうとしていたら通りかかった地元のおじいさんが
「皆さん三本を写真に入れようとされるけど難しいよ」と、物凄い鋭い突込みを(汗)。

いやいや、確かに仰るとおりです。

かなりロングで撮るならともかく近すぎると薮ばっかり写っちゃって難しいなと思っていた所。
ナイス突っ込み。

広角欲しいなー。
とか思いつつ、いい時間になってきたので
地元の役場に行く事にしました。

◆ ◆ ◆

凄く新しくて綺麗な加悦町の役場に伺いました。
昭和49年発行の加悦町史にはこのような記載がありました。

1934年(昭和9年ごろ)、昭和鉱業の社長、森矗昶はニッケル精錬に非常な熱意を持ち
大阪鉱山局技師をしていた小田豊作(後の大江山鉱山長)を起用して蛇紋岩地帯を歩き回った結果
大江山連峰全山が殆ど珪酸ニッケル鉱でその埋蔵量は数十億トン、含有成分は鉄20%〜25%
ニッケル0.6〜0.7%ということで貧鉱ではあるが
選鉱その他貧鉱処理法が研究されれば国内屈指の宝庫である事を発見した。

そこで1934年9月、大江山ニッケル鉱業株式会社を創立し
1939年に大江山の鉱土を七尾セメント工場に送り
試験的に精錬した結果立派な含ニッケル粒鉄ができた。

1940年には陸軍省の強い要請により岩滝に精錬所を完成、操業を開始した。

1943年には大江山鉱山に連合軍の捕虜や連行された中国人を多数いれ
又従業員の住宅ができ金屋一帯は時ならぬ賑わいを極めたが終戦と共に創業が中止された。

その後、日本治金はニューカレドニアから鉱土を運び4本の煙突から絶えず白煙を上げ
業績を上げている。

煙突4本? 4本在ったのか?

確認した所3本の間違いでした。


町史を閲覧し、他の資料については観光協会が詳しいと紹介を受けました。


役場に隣接している旧加悦鉄道、加悦駅舎。
観光案内所と加悦鉄道の資料館です。
凄く綺麗な外観ですが、平成8年に加悦町の指定文化財になり
平成11年から13年にかけて建物を現在の場所に移転移築したそうです。


駅舎の説明。

昭和20年の終戦で大江山からのニッケル鉱土輸送は停止。
戦後は次第に蒸気機関車からガソリン車、ディーゼル機関車に代わっていき
昭和31年頃には5両ほど走っていたSLも廃車となりました。
さらに貨物及び旅客の鉄道利用が日に日に減少していき
昭和60年4月30日、鉄道事業は廃止に至りました。
 

加悦鉄道は大正14年に丹後ちりめん産業の運送と京阪地方との交流、通学の便を図るため
村民823名の出資により設立された鉄道だそうです。
現在、加悦町にあるサイクリングロードが加悦鉄道の跡になるそうです。
軌跡は残っていませんが野田川まで通っていたとの事。

鉱山が隆盛を極めた頃は鉱石列車が日々行き来していた路線です。


大江山の蛇紋岩。
今もズリ山に行けばリザーダイトの模様も美しい蛇紋岩がいくらでも採集できます。

蛇紋岩に含まれている物質といえば真っ先に思い浮かぶのは石綿・アスベスト。
今は危険な物質としてその名前が定着してしまったアスベスト。
しかし同じ石からニッケルを取り出していました。

この場所からその気配が消えてしまいました。
鉱山の遺構はひっそりと道の駅の上に隠れています。

鉄道の遺構が華やかに残っている加悦町。
でもその鉄道は鉱山の為に頑張っていた事ももっと知られて欲しい
大江山ニッケル鉱山でした。