面谷鉱山見学 その1

福井県と岐阜県の境にある和泉村は昔、穴馬と呼ばれていた地域です。
この村は鉱山をいくつも有し、鉱山の恩恵と鉱山景気の浮沈で左右されて
きた歴史を持つ村です。

最近まで稼動していた中竜鉱山(日本亜鉛工業)も同村内にあります。
和泉村史によると、同地域内において文献などで確認されている鉱山は
面谷鉱山、中竜鉱山、荷暮銅山、田徳平金山、久沢村鉱山、影路村鉱山、
長野村鉛山、角野村銅山、下大納村鉛山と、数多くありますが、いずれも
歴史が古く、現在遺構が残っている場所はわずかだそうです。

面谷鉱山は、非常に歴史が古く、近代には既に老齢化していた鉱山でした。
この鉱山が発展を遂げたのは明治時代に三菱が経営にかかわり近代化を
進めてからでした。


面谷鉱山への道は冬季は雪で閉ざされている林道です。
九頭竜ダムにかかる橋を渡って、約5kmフラットダートを進む事になります。
林道の横には面谷川があり、九頭竜ダムに近づくにつれ、エメラルドグリーン
の水面に変わっています。


林道をしばらく進むと石碑が立っていました。
『南無阿弥陀仏』といきなり書かれていて面食らいます。
石碑には面谷の地にあった鉱山集落で発生した伝染病で亡くなった方の
エピソードがかかれていました。治療を受けられずに迷信によって医療機関
から遠ざけられた人がこの土地でたくさん亡くなったのです。

石碑にはこう書いてありました。(改行・文字、石碑の通りです)

南無阿弥陀仏

この墓地について私が亡父(鎌冶)より聞いた
ことを書いてみました。
この墓地は面谷鉱山隆盛の頃鉱山周辺にある
集落で伝染病(赤痢・腸チブス)が発生してそ
の病名については、定かでないが当時は伝染病
と言う事で皆に恐れられ、誰も近づく者もな
く、手の施しようの無いまま十数名の死者がで
たのです。
昔の事で集落の人は迷信に惑わされ仏を現在奥
にあるお墓に埋葬したら伝染病が流行るとい
けないので態々この地まで来て埋葬し明治二十
年六月にお墓を建てたのです。面谷鉱山へ出入り
する道の側ですのでここを通る面谷集落の人は
必ず立ちどまり合掌したそうです。決して疎か
にしてはいけないお墓です。
                  合掌

今でこそ、伝染病で亡くなる方は激減しましたが100年前には脅威だった
はずです。山間部の伝染病。狭い範囲で出た伝染病患者。
集落に住む多くの人が恐れた気持ちもわかります。

それにしてもこの石碑の文章は妙です。個人が建てたものなのでしょうか?


この石碑の前は少し広い場所になっていました。
前方に貯石場らしき山が見えています。


この林道に入ってから、道の左右にはずっとこんな風に石垣が姿を見せています。
貯石場の下も、もちろんそうですが草木に覆われた山手にも目を凝らすと石垣が
あるのが延々見えているのです。人家、道路、施設の整備された跡なのでしょう。
狭い渓谷ですが鉱山景気の頃に人口密度がどれほど高かったのかを伺わせます。