その橋は誰の為の  1

 

その水害が村に訪れたのは昭和34年。
その水害を引き起こした台風とは伊勢湾台風。

 

 

緩斜面にあるその集落は昔、村が水害にあった時に最も被害が軽微であった場所でした。
村の主要集落が壊滅的被害を受けて途方に暮れていた時に届けられた義援物資。
その集落で取れた甘藷70貫がありました。



伊勢湾台風は気象史に残る大災害を引き起こし各地で治水の為のダム作りが叫ばれました。

水害を受けた村。
そこに持ち込まれたのが治水・利水を目的とするダム建設の話だった事は皮肉なのでしょうか。

 



村人はダム建設予定地になった事に反対しました。
村議会はダム建設反対を決議しました。
洪水を防ぐ為にということは理解できても自分達の土地が水底に沈む事には
耐えられない気持ちだったのでしょう。
そして40年にわたるダム建設反対闘争がこの村におきました。

その集落は水没区画より高い場所に在りました。
それでも村の水没予定の各集落の人々とダム反対期成同盟を結成しました。
 


しかし、建設計画が持ち上がり村に反対運動が起きて15年後。
その集落にとって脅威となる県のダム地質調査委員会による調査結果が報告されました。

『集落のある場所は軟弱な10数mの崩積地層が岩盤や 固い地層の上に乗っている為に
川面からずっと遠くにある この集落のすぐ近くまで水が溜められる事になれば 地滑りが
起きる危険性が強い』         という調査結果でした。

非水没地区であったその集落に走った衝撃はどんなにか大きかった事でしょう。

 

 

 

 

村は非水没集落に対しても保障を求めますが補償交渉は難航を極めました。

村を通る国道は付け替えられる事になりましたがその多くがトンネルになるという計画が
発表されると反対運動は更に苛烈を極めました。
県と国が「この土地は崩れやすい崩積層なので通行車両の安全確保のために
トンネルにする事は必要」と主張し、村は「生活の便利さから水没者は道路端に住宅を
再建したいとしているのにトンネル化するのは水没者の意向を無視する物だ」と反対しました。


ダム建設の為に予備調査に出かけた測量技師が山に入れないように
村人は山に下肥を撒きました。このダムの反対運動が『下肥闘争』と呼ばれる所以です。
昭和63年ダム建設に調印するまで反対運動は続けられました。
 

 


結果として、ダム建設費としては桁外れの3200億円という費用がかかる事になりました。
そんな予算を出せたのはダムの建設を進めていたのが建設省であったからであり
治水の為にどうしても必要という気持ちが国にあったからでしょう。





しかし、その集落は保障の対象から外れていました。
非水没区画であったからというだけの理由なのでしょうか。
非水没区画に対しても地滑りの危険性を考慮して国が保障を行ってきた例は
他のダムで実際にあることなのです。


地滑りの指摘が成されているにも関わらず全戸移転を申し出ているにも関わらず
保障は受けられずに地滑り対策工事を施されるにとどまりました。

 

川に近い場所に在った由緒ある神社が移築されました。
南朝縁の史跡がダムサイトに移築されました。
細い道には10tダンプが頻繁に行き来するようになり
かつての村の中心部は山のずっと高い場所に造られた
代替道路の近くに移動していきました。


広かった川に緑を広げていた木々も伐採されました。
一面の土の色。広大な空間に基礎工事が始まりました。
ダムの堤体が日々その高さを増していきます。

 

地滑りの危険を指摘された集落へ見事な橋が掛けられたのは平成3年の事です。

平成3年度「土木学会田中賞 作品部門 入賞」のこの橋。
田中賞とは “橋梁、鋼構造工学に関する優秀な業績”に対して贈られる名誉ある賞です。
 

 



堤体が完成し、試験湛水が始まりました。
斜張橋の長い長い橋脚が水に隠れて行きました。
ダム湖の岸辺の土の色は水か覆われて見えなくなっていきました。



そして地滑りの前兆が集落を襲ったのです。



引き戸が開けられなくなりました。
アスファルトとコンクリートに亀裂が入りました。
恐怖に住民は眠れぬ夜を過ごし雨の度に足元が崩れ落ちる不安に襲われる事になりました。

 

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