川上村 高原地区の事 その1

2023/8/1 更新


橿原神宮からそんなに遠くない大和平野土地改良区の
吉野川分水歴史展示館にダム工学会・中部近畿ブロックによる
with Dam Nightの打ち合わせでやってきました。


展示スペースにある古地図のひとつ
「最新奈良県郷土地図」です。
製作年代の記載を探しましたが見つかりませんでした。
裏面にあるのかもしれません。


色んな地図記号がありましたが
水力発電所の記号があるのを発見して喜ぶ♪♪


地図を見てまず探したのは大河原発電所と相楽発電所。
でも記載がない。

相楽発電所は1928年(昭和3年)
大河原発電所は1919年(大正8年)運転開始なので
それより前に作られた地図なのかな?


でも飛鳥路発電所と下狭川発電所の位置にはマークがついていました。
下狭川発電所は1906年(明治39年)
飛鳥路発電所(現・布目川発電所)は1908年に運転開始 


迫発電所の位置にも記号がついていました。
迫発電所は1910年(明治43年)に出願
1911年(大正元年)に運転開始です。


発電所を出願したときのデータによると

水路得延長 1095間 (約1990m)
有効落差 737尺 (約223m)
使用水量 9立法尺 (約0.25m3)

で、高原川から取水して迫地区で吉野川に放水していた様子。


落差を考えると高原川のかなり奥の方に堰堤をつくっていたのだろうと予測できます。

この迫発電所に水を送っていた高原堰堤というものを
ダム愛好家のざきダム様やMD土木様が熱心に探しておられ
今年の元旦に、廃止された堰堤を現地で発見したと耳にしていました。

よくこんなの見つけたな〜。
すばらしい。

地元ですが今まで、現地探索はしていなかったので
迫発電所について図書館に行った時に他の調べ物と一緒に資料を探してみました。


日本土木史にある大正時代に竣工した高重力ダムの一覧表です。


高原ダム 迫発電所 大正6年8月竣工
堤高19.7m 堤頂長69.70m 上流面鉛直 下流面勾配56% 堤体積2686m3
利用水深16.18m 関西電力 ゲートなし 曲線

という記載です。


こちらは「関西配電社史」に掲載されていた地図です。
紀ノ川(奈良県では吉野川)より南部は三重、和歌山まで
年間降水量が一番多いエリアを確保していたのが
宇治川電気であることが分かります。


川上村出身の同僚が自宅にあったという川上村史を貸してくれました。
大迫ダム史も一緒に。
村史が家にあるってすごいな。

大正元年8月1日に“宇治川電気株式会社迫水力発電所運転開始する”
という記載がありました。

村史年表に登場する迫発電所の名前を探します。


1931年1月10日
「宇治川電気吉野営業所迫営業店発足する」


1942年4月
「関西配電株式会社設立(宇治川電気合併)する」


1961年12月1日
「関西電力吉野営業所迫出張所設置する」


1978年8月
「迫発電所を無人化する」


1985年2月
「迫発電所を変電所に変更する」

現在の川上村には関西電力様の設備として
大迫ダム直下の大迫発電所
大滝ダム直下の大滝発電所
隣の吉野町にある樫尾発電所に水を送っている大滝堰堤
がありますが変電所はないので迫発電所、変電所は廃止されているのかと思います。

ということで追跡終了。


迫発電所についての情報収集が一段落したあとも
村史を読み進めていくと伊勢湾台風についての記載がありました。

1959年(昭和34年9月25〜26日。
台風の中心が奈良県を縦断し、大雨が降りました。
大台ケ原の日出岳では総雨量622mm、日最大雨量427mmを観測しています。

この伊勢湾台風で県下最大の被害が出たのが川上村の高原地区でした。
大規模土砂崩れが発生したのです。


土砂崩れ後の高原地区の写真が載っていました。
当時の新聞にも村史にも山津波と書かれています。


大規模土砂崩れの大きさは高さ200m幅150mにも及んだとの事。


紀伊半島大水害で迫地区に発生した深層崩壊が高さ350m幅150m
なのでイメージしてみました。

集落の真上でこれが起きたと考えると背筋が寒くなります。


奈良県図書情報館で色々資料を漁っていてとても薄いこの本を見つけました。

高原村史 明治百年記念

川上村の高原地区が村で独立していた時の記録のようです。
合併される際にまとめられたものでしょうか。


ページを繰るとこんな図が出てきます。
斜線がかけられているところは伊勢湾台風の土砂災害が発生したところ
ということなので、昭和34年以降にまとめられた資料なのかと思います。

高原地区だけではなく現在の川上村の各所で土砂崩れや浸水の被害が出て
集落の孤立も深刻であったとの事。

色々探していると、高原地区には「伊勢湾台風遭難者之碑」が
建てられているということが分かりました。
しかし、国土地理院の災害伝承碑に登録されていませんでしたので
気になって現地に行ってみることにしました。

迫発電所を探していただけなのに色々情報が入って
目的がずれはじめています。
よくあることです。

色んな原稿を書いていて煮詰まって来ると
フィールドワークに出て原稿から逃避したくなる病を発症します。


ということで、ひとっぱしり川上村の高原地区までやってきました。
移転した丹生川上神社上社の前をずっと登っていくと到着します。

現地で最初にお会いした方に伊勢湾台風遭難者之碑の写真を見せて
これを探していますと伝えたところ、すぐ近くだよと教えていただけました。

現地入り2分で位置確定。


集落のメインストリートに立つ地区の案内地図。
その奥に見えている鳥居と赤い屋根の神社が目印です。


現在地、集落入口から近いこの辺り。


神社の敷地の塀に沿って歩いて、細い川を渡ってすぐの所にありますと
教えて頂いたとおり、こういう場所に碑が建てられているそうです。


ということでまずは神社へ。
石碑には氏神神社とありますが地図では十二社氏神神社です。


この神社でびっくりしたのがこの杉。

ものすごい直径の杉の切り株の真ん中に別の杉が多分植えられて
すくすく育って二代目になろうとしているのかそうでないのか分かりませんけど
この土台になっている杉の巨木がちょっとないサイズで…。

高原集落、凄い歴史がありそう。
そういえば奈良県災害史に
伊勢湾台風の被害は1300年間平和だった村にやってきた大災害
という表現があったような…。


凄い杉の切り株に驚いた後、教えて頂いたとおりに
神社の敷地の塀に沿って塀が切れるあたりで北に進みます。


細い道の先に見えてきました。


高原地区の伊勢湾台風遭難者之碑です。


高原地区で被災され、なくなった方のお名前が背面に記されていました。

「昭和三十四年九月二十六日午后九
時伊勢湾台風に因つて堂前谷に山
津波襲来一瞬にして五十有八名の
生命を喪ふ洵に痛恨の至りである
茲に供養の碑を建て謹而諸霊を弔
ふ」
  昭和四十年九月
    高原区建立

高原地区の被害、川上村全域の被害については
「歴史から学ぶ 奈良の災害史」 奈良の災害史7 第3章-2
に詳しい記載がありますのでご覧になってください。