大村神社 その2


要石社の横に大きなナマズ登場。


反対側にもいらっしゃいました。


こちらでお祀りしている要石についての説明板です。

創祀神護景雲元年

武甕槌命・経津主命は
常陸・下総から奉鎮せられました
地震除災の御霊験あらたかで
大神様の御守護を崇められた

呪文として

 ゆるぐとも よもやぬけまじ 要石 大村神の あらんかぎりは

と、覚えやすく五七五七七。

御霊験として
嘉永7年/安政元年(1854年)の伊賀上野地震
大正12年(1923年)の関東大震災
昭和2年(1927年)の奥丹後地震
昭和19年(1944年)の 昭和東南海地震
平成7年(1995年)の阪神淡路大震災
が記されていました。


ナマズにお水をかけつつ静かにしていてねとお願い。


要石社の中には要石。


見えるのかな〜と近づくと・・・


注連縄と幣が見えました。
要石にお祈り。
南海トラフ地震が小分けで来るように
でかいの一発で来ないように
ひたすらお祈り。


大村神社は小高い丘の上にあります。
車でやってくる南の駐車場側からは高低差があまりないように見えますが
やって来る道でこれだけの高さを登ってきています。


この参道は初瀬街道の道中に大村神社に
お参りできるように設けられたものです
西側の参道。


参道を登ってくると社殿がこんな風に見えます。
社殿が北向きなので。


そしてお参りを済ませたらそのまま引き返すことなく
東の参道を下って初瀬街道に戻ることができます。

何と合理的な造り。


大村神社の国指定重要文化財の宝殿です。
塀の向こうに屋根だけ見えているのがそうですが
華やかで美しい建物です。

説明板によるとこの宝殿は昭和と平成に大修理を行っているのですが
天正15年(1587年)に再建されたものだそうです。

再建という事は元々の宝殿があるはずです。
それについては要石社の横の説明板に記されていました。

一、由緒
  天正九年、天正伊賀の乱の兵災で焼かれ、同十五年再建する(元本殿)

天正伊賀の乱

織田信長が本能寺で自死するのが天正10年6月。

その織田信長が九万の兵を率いてこの地にやってきたのが天正9年9月。

伊賀上野の城からはずっと離れたこの場所にも
社殿を兵火で焼かれるというジェノサイドの記憶があったのです。


本殿の屋根の上には三つの紋が刻まれていました。

中央はここ、大村神社の主神、大村の神の紋
手前の下がり藤は春日大社の紋
奥の三巴は鹿島神宮の紋です。

鹿島神宮から武甕槌神 経津主神が春日大社を経て
大村神社にやってきたことを示すものであるらしいです。


東側の参道を下りてきたところです。


初瀬街道にちなんだものなのか
大村神社の参道であるためかは解りませんが

目の前に流れる木津川には朱塗りの橋が架けられていました。


木津川上流部です。
下流に比べてほんとに細い河道です。
写真左手にこんもりしているのが大村の神の鎮座する
大村神社の丘になります。

安政の大地震

伊賀上野城の周囲が1.5m近く液状化して地盤沈下した
内陸直下型の伊賀地震

安政江戸地震
安勢東海地震
安政南海地震

立山カルデラに2億トン物崩壊土砂をもたらし
立山砂防事業のきっかけとなった飛越地震

150年ごとにやってくる大地震

もういつ来てもおかしくないんだと思うと
お祈りする気持も変わってきます。

せめて
小分けで来てください
せめてプレート3連動だけはやめてください

と、お祈りをして大村神社を後にしました。

建設中の川上ダムと下流に整備された上野遊水池
そして河道の整備は一体事業です。

川上ダムだけで治水はできません。
上野遊水池と既存のダムだけに頼るのも厳しいです。

治水を学ぶ時に土地の歴史を知ると違うものが見えてきます。

川上ダム建設現場見学の折には
ぜひ少し足を延ばしてお参りに来てほしい
大村神社のレポートでした。