長崎ぷらぷら その1

2019/4/1 更新


仕事で長崎にやってきました。

「ようこそ長崎へ・・・。」

いやいや
「ようこそ!!長崎へ!! 」
くらいのノリでいいと思うんですが
何故そんなに控えめなのか。


空港についた時にはすでにとっぷり日は暮れており
リムジンバスで長崎市街地に到着。
宿泊のホテルに急ぎます。

wDN-Kyusyuの取材の時にお世話になったホテルを予約してきました。
帝都は別にして基本的に同じ都市に行く時には
以前宿泊したのと同じホテルを選ぶ傾向があります。

理由は簡単。
道を覚えているから。

到着当日は体調が思わしくなく
食事も近くのコンビニで買ってきたサラダとサンドイッチだけ。
早々に就寝。

◆ ◆


翌朝、起床してすぐに大変めでたいニュースに大喜び。
ネットのニュースで見てはいましたが。
はやぶさ2すごいぞーっ♪素晴らしいぞーっ♪


朝ごはんとして昨日買いこんでおいたおむすび一個を食べて
早速、早朝から宿泊ホテルを出ててくてく歩いてきました。
仕事に出る前に市街地で見たいところを回る作戦。


本日最初の目的地はここ。
長崎市街を走る長崎電気鉄道の新大工町駅から近い
倉田水樋水源跡。

ダムマイスター仲間の川崎秀明先生の著書「日本のダム美」の中の
長崎水道ゆかりのダムを調べる時に文献調査で何度も出てきた
長崎市の水道史を学ぶ上でとても重要な場所。


川に向かって進んできて最初になんかあるなぁと近づいたら
「上野撮影局跡」との説明板。

撮影局?
なにそれ??


説明板を読むとあの坂本竜馬の有名な立ち姿写真とかが撮られた
日本の写真の黎明期の遺構の跡地を公園化した場所であることが分かりました。
奥の白い壁と肘置き台の前でポーズをとれば坂本竜馬写真が撮れるという凝った造り。


いや、これも素敵な記念碑ですが私が探しているのは別の石碑。
地図を片手にきょろきょろしているとお散歩中の方が
とても気さくに次々とどこに行きたいのかと声をかけてくれました。
全身からアホの子オーラを出している成果と思います。


中島川を渡って少し下流に向かって進むと見つかりました。


『倉田水樋水源跡』です。


長崎に明治時代初期に本河内高部・低部ダムをはじめとするダム整備と
近代水道が生まれる前に活躍した上水の路です。

「本五島町の廻船問屋倉田次郎右衛門が
延宝元年(1673)、7年の歳月をかけて造りました」

「巨額な工事費を出すために宅地3箇所と廻漕船3隻を処分しました」

「水樋によって長崎の66町中50余町に給水しました」

近代水道が普及する前
各地の都市でこういった豪商が地元のためにと
水を安定的に確保するために私財をなげうった話
たくさんあるのです。

調べていると本当にその志の高さに目頭が熱くなる。


しかし側面の文字も読みたいのに
きりきりのところに説明板建ててあるから側面の文字が撮れないのが残念。


中島川の横を下流に向かって歩いて行きます。
古風に見える橋がたくさん架かっています。
この橋は阿彌陀橋。

しかし親柱の竣功年を見ると昭和62年となっています。
この橋も、他のたくさんの橋と同じくあの
昭和57年の長崎大水害で落橋したのです。


てくてく下っていくと西山川との合流点に到着しました。


合流点に素敵な跳び石と川面まで降りられる階段が整備されていました。
平時はこれで対岸に渡れるんですね。
素敵な整備。


中島川にはいくつも石橋がありましたが
完全に落橋してしまったものから
一部損壊で何とかその場所に踏ん張ってくれたものまで
色々です。

眼鏡橋の一つ上流の魚市橋より上流の橋は
軒並み落橋したそうです。
美しいアーチを描いているこの橋も再架橋されたものです。