相当ダム 見学 その1
2021/2/21 更新
大変、個性的な転石ダムの次に訪問したのは相当ダムです。
こちらも佐世保市の水道水源ですからがっちりフェンスで守られていて
通常非公開です。
転石ダムにあったものとお揃いの日本遺産の説明板がありました。
相当貯水池は佐世保軍水道の第五次拡張工事で造られました。
軍水道の施設としては最後に造られたダムになります。
紹介されている写真は堤体ではなく
コンクリートプラントと殉教者慰霊碑でした。
説明板の左の本文に完成したのは終戦前の
昭和19年(1944年)と書かれていますが
このコンクリートプラントの写真は終戦後の米軍が撮影したものであると
説明がついています。
軍関係の施設では終戦時に設計図等が焼却され
施設も破壊されたりしていたことを考えると
工事中の櫓などがそのまま残っていたというのは
とても不思議な感じがします。
終戦の前の年なら物資が困窮していたでしょうし。
でも事実、そのまま残されていたので
こうして米軍の写真に残っていたという事実。
もう一つの殉教者慰霊碑についての説明があります。
捕虜になった米軍兵士が建設工事に動員されていたのです。
堤体左岸側には綺麗に整備された芝生広場があります。
この辺りにコンクリートプラントがあったのでしょうか。
その奥の一番高い所に殉教者慰霊碑があります。
説明板には水道管をイメージした慰霊碑であると記されています。
在日米軍司令部のFBでも慰霊祭の様子が写真付きで紹介されています。
2017年は5月30日に、2018年は5月25日に
2019年は5月23日に開催されたようです。
日本人労働者14人、米軍人捕虜が53人
ダムマイスター(専門家)の古賀先生の文献にみる補償の精神【52】によると
工事現場の転落のような現場で負傷して死亡したという事ではなく
寒冷による罹病でなくなったという事でしたので
低栄養状態や肺炎が死亡原因となったのかもしれません。
長崎は冬はとても寒いのです。
水道管を模したというこの『佐世保市水道殉教者慰霊塔』は
昭和31年4月に佐世保市によって建立されました。
『佐世保市上水道 殉教者之碑』
の下に灰色のプレートがあり
この慰霊塔が建立された昭和31年時に氏名が判明していた人の名前と
“AND 23 UNKNOWN OTHERS”の文字があります。
慰霊塔の中にあるプレートに刻まれている名前は
相当ダム建設に従事して亡くなった方々だけでなく
佐世保軍水道創設の明治36年(1903年)からの
殉職者の名前も刻まれているそうです。
新しく設置された銅色のプレートには記されている名前が増えていました。
“この碑にはPhilip D Eakins氏並びに関係のお力により
確認されました殉教者の御芳名が刻まれています。”
との文章があり、設置されたのは平成22年(2010年)でした。
“AND 23 UNKNOWN OTHERS”とされていた方々のお名前も刻まれました。
戦後75年目にして新しく記されたこの地の記憶です。