関屋分水路と新潟海岸 その2


信濃川の概要を示す展示物がありました。

流路延長日本一の信濃川。
最上流は甲武信ヶ岳。
長野県・山梨県・埼玉県の県境で総延長367km。

そして長野県内では千曲川と呼ばれており
新潟県に入って信濃川と名前を変え大河津分水地点から下流を
信濃川下流と特別に呼んで区分しているようです。

千曲川が214km
信濃川が95km
信濃川下流が58km


この信濃川下流には大河津分水とこの関谷分水で
分水路が二つあります。

分水路の主目的は洪水をショートカットで海に流し
保全対象区域の河川水位上昇を抑え浸水被害を防ぐ事です。


信濃川と関屋分水路の航空写真のパネルです。
下に鳥屋野潟も写っています。

パネルを見ながら頭に浮かんでいたのは
大河津分水ができてから50年たってもう一つ分水が必要になったのは
どうしてかなという疑問でした。


年表がありました。
関屋分水の前身と呼んでいいのか
江戸時代末期に関屋堀割という水路が造られていました。

この関屋堀割はそのすぐ上流の信濃川左岸にある坂井輪地区の
内水を減らす目的で造られたものだったが明治の末には
河口部分が砂で埋まってしまった、とあります。

流路延長日本一の信濃川の下流です。
上流からくる砂は大雨の度に大変な量になったであろうことは
容易に想像できます。


そして有名な「横田切れ」が起きました。
洪水の歴史を勉強したら必ず出てくる信濃川の大災害です。

これを受け、着工されたのが大河津分水です。
大河津分水ができてから越後平野の洪水被害は激減しました。


ふんふんと年表を読んでいていきなり
思考がショートしてしばらく止まってしまったのがこの文章です。

1953年(昭和28年)
・新潟港に堆積していく土砂対策として、
信濃川の流れを河口で分水する案と
関谷で分水する案が検討される
え・・・
どういうことかな…
大河津分水ができてから洪水が全部海に向けて出て行くから
上流から供給される砂が劇的に減って
新潟港は海岸浸食で100m以上も後退してしまったはずでは…

現在の中央区雲雀町の西の端あたりにあった旧新潟測候所が
浸食された海岸というかもう海に浸かって傾いている写真が
信濃川河川事務所のHPで紹介されています。

信濃川下流河川事務所 新潟海岸について

新潟入りする前に読んでいた河川工学の神様・高橋 裕先生の
「川と国土の危機 水害と社会」の中でもこのエピソードが描かれていました。

高橋先生が1949年に新潟入りした際に日和山という場所から
旧新潟測候所が沖合に横たわっているのを確認されているのです。


これは新潟西海岸公園にあった説明板です。

今はしっかり対策工事、養浜工事が行われて綺麗な道路が通っていますが
旧新潟測候所が海岸浸食にやられて水没していたのはこの辺りになります。

大河津分水の完成により越後平野の稲作は安定して良いことづくめ
というわけではなく大河の流れを変えた事で色々な所に影響が出ています。

そのひとつが大河津分水の分水路の河口部の港が洪水時に運ばれてくる砂で
水深が浅くなってしまいました。
寺泊地区では砂浜が誕生して海水浴場になっているそうです。

洪水が運んでくる砂がなくなったことで
信濃川本川の河口にある新潟港はむしろ砂がなくなっているはずなのに
大変な海岸浸食も起きているくらい砂が足りなくなっているのに

どうして

「新潟港に堆積していく土砂対策」として「関屋分水工事」

なのか、頭の中の情報が整理できませんでした。

だれか詳しい人いないかな〜
と、頭に浮かんだのが、今回の新潟入りで美味しいものからお土産処
見た方が良い場所のおススメをたくさん教えてくださった磯部様でした。

新潟海岸の大浸食と新潟港の土砂堆積について
どっちもホントであるはずなので
プロセスを教えてくださいと質問したところ
驚きの答えが!!

「両方正しいです」
「新潟港は河口港という事で、元々、とても水深が浅く、1m未満の所もあったはずです」
「幕末の開港が遅れたのもそのせいです」
「信濃川が運んできた砂は、河口の流路内(=新潟西港)に堆積した上で
海に出てから周辺にも堆積していましたが
大河津分水で信濃川本流の水量が激減するので
運び出す砂も減り河口の流路内に砂が溜まってしまいました」
「結果、“港に堆砂 海岸は砂がなくなる” となりました」

なんとなんとなんと!!!
大河津分水は洪水をカットするだけでなくそもそもの流量も小さくしたから
川として掃流力が著しく低下して元々砂が溜まりやすく浅かった河口港が
砂は少なくなったけど流す力も弱くなってしまってじりじりダメージ。

そして分水路河口の寺泊には砂浜が新しくできちゃう位の砂が来ているけど
新潟港には届く砂が激減したので海岸が浸食されて決壊という。

大河津分水の影響ってホントにすごい!!
吃驚したー。

更に吃驚したのは他にも大きな要因があったことです。

「新潟海岸の浸食は大河津分水の設置による砂の減少と
地盤沈下、そして新潟西港の防波堤設置による流れの変化が主でした」

新潟西港防波堤というものが海岸浸食に大きな影響を及ぼしているのだそうです。


関屋分水資料館の展示物の写真にはおそらく洪水の後に撮ったのであろう
本川の水にそれなりの濁りがあるこんな写真がありました。
濁りの元は漂う砂。

新潟港に砂をためないように沖合まで川の水が流れていくように
河口部の左岸側に長い長い防波堤が築かれているのです。

この新潟西港防波堤の歴史はとても古く
オランダから招聘されていた土木技師が設計にかかわっていたという
歴史的建造物でもあります。


DamMapsの地理院地図で見るとここになります。
凄い長さで地図上でざっくり測っても3km以上あります。


DamMapsの航空写真で見るとこんな感じです。
昭和46年の航空写真では長さが半分ですから
沖合に向かって新設されています。

港周辺はかなり姿を変えているようですが
防波堤だけでなく導流堤も装備されているそうです。

なので、この写真で見ても川の水の流れは
海の波の力で殺されずに沖合までスムーズに届いており
薄濁りの川の水が沖にふわーっと届いて広がっているのが分かります。

この西突堤こと新潟西港防波堤が新潟海岸への砂の供給を遮断して
海岸浸食が進む主要因になっているのです。


今ではこんなに綺麗な道路も整備されている新潟海岸ですが
戦後すぐ、この場所は浸食されて海だったのです。

海岸浸食が進んだ理由の主たるものは
大河津分水による砂と水の運搬量が激減したこと
新潟西港防波堤による砂の流れの変化ですが
更にもうひとつ要因がありました。

新潟市の地盤沈下です。

越後平野では天然ガス採取のための地下水大量揚水が原因の
地盤沈下で1955年頃から年に20cmも沈下するところが広範囲に現れ
40cm近く沈下するところも出てきたために
地下水のくみ上げに規制がかけられるようになったそうです。

この地盤沈下に砂の供給低下が加わって新潟海岸は豊かな砂浜から
浸食海岸に変貌したのだそうです。


そしてずっと続けられているのが養浜工事です。
本当に気の遠くなる工事ですが絶対に必要な工事なのです。

大河津分水は越後平野に絶大な効果を示しました。
それだけ効果が大きかったということは別の所にも大きな影響が出るという事です。

関屋分水を見て、大河津分水事業の凄さと
川に人の手を加えるということの凄さ
そして圧倒的な力の前にメンテナンスを怠ったら
すぐにでもそれらのシステムは破綻するだろうという事など
色々な事を再確認することが出来たのでした。

ボヤボヤ頭のふわふわした質問に的確にお答えをくださった磯部様にお礼を申し上げます。