大河津分水 見学 その1

2022/4/1 更新


信濃川の河口から58km地点。
新潟県燕市にある大河津分水にやってきました。

二回目の訪問です。
前回の訪問時は強風と低温に加えて工事中で
しっかりと現場を見ることができなかったので
今度こそと思ってやってきましたがもっとひどい暴風雨。

何故に大河津分水とこんなに相性が悪いのか。

でもめげない。大好きだもん。


2022年は大河津分水通水100周年なのでことさらに
会いに来たかったという。

北陸地方整備局 信濃川河川事務所のHPで
大河津分水についてたくさん学べる特設ページも開設されています。

大河津分水通水100年

信濃川河川事務所では大河津分水通水100周年記念で
貴重な写真も見られるYouTubeチャンネルも開設されています。
T1919の洪水を紹介する「晴天の大洪水」をはじめ
勉強出来る動画がいっぱいですがまずはこれを見てほしいです。

  「あの山を拓く 〜大河津分水歴史動画〜」

この動画でほぼ大河津分水のアウトラインが把握できます。


訪問日にはカウントダウンボードがこんな風になっていました。
通水開始記念日は8月25日なのです。


越後平野の主要河川の図です。
大河川、信濃川に阿賀野川、加治川に荒川。

阿賀野川や加治川、荒川は海岸線に向かってほぼ直角に
流れ下っているのに対して信濃川は行き先に困ってまごまごしてから
海に達しているように見えます。

信濃川下流部とは大河津分水から河口までの58kmの区間を言います。
この58kmの区間の海岸線には新潟砂丘と角田弥彦山地という
天然の巨大な障壁があり、信濃川の水は速やかに海に流れ出すことができず
標高の低いところで右往左往してから海に到達していたのです。


当日、現場で詳細なガイドをくださった方は
こんな素敵な後姿。

着たいな。
これ、すごく着たいな。
欲しいな。
これを着て意味もなく街中うろうろしてPRしまくりたいな。


これは大河津分水建設のきっかけにもなった
1896年(明治29年)の横田切れの浸水範囲です。

流路延長日本一の信濃川。
上流の大雨が全部やってくる下流部は水が右往左往する標高の低い湿地。
堤防が切れるとその水は長期間にわたって引くことがないために
居住地、耕作地が水没するだけでなく感染症の発生原因にもなり
地域への影響はあまりにも大きく洪水が来ないようになることは住民の悲願であったはずです。


大河津分水が完成してから水害は激減しました。
完成後、信濃川下流で堤防は一度も切れていません。

令和元年のT1919では上流の長野県で千曲川の堤防が切れましたが…。


大河津分水によって洪水常襲地帯で泥濘地・湿地が広がっていた越後平野は
劇的に変貌しました。

湿田稲作から乾田稲作へ
越後平野を日本屈指の米どころにしたのが大河津分水です。


大河津分水が完成する前は湛水田と湿田で占められていた水田が
どんどん乾田に代わって行ったのです。

湿田と乾田という単語に、ピンとこない人もいらっしゃるかと思います。

自分も古い文献の写真でしか湿田での稲作の様子を知らないので
実物を見た事はありません。

水田は稲を作付けしていない状態で大別されます。

湿田とは年中水が溜まっている泥が深い水田です。
年中、水溜まり状態で何が起きるのかというと
土壌中に蓄積された有機物が夏の日差しで暖められると
分解されて有機酸や硫化水素を発生するような状態です。
稲の生育を阻害する上に裏作もできないため
湿田では収穫量も少なく、機械を使うと沈んでしまうので
人でしか作業ができない水田です。

実家にあった1970年代中盤に発行された本に湿田の写真を見つけました。

人も体が沈まないようにずっと足踏みをしていなくてはならないところも
あったそうですし、腰まで水に浸かっての農作業で低温による体力消耗
身体へのダメージも大変大きかったそうです。
それに対して現在はほとんどの稲作は乾田で行われています。
乾田は排水がよく、土壌が乾いているので
有機物の酸化が良く進み、稲の生育に適しているばかりでなく裏作も可能です。
機械の導入も容易で収穫量も上がりますし農作業も格段に楽になります。


乾いた土地が増えること、信濃川の流量をコントロールすることで
標高が高い所にしか造られなかった鉄道や道路は
今までなら浸水するから建設できなかったルートで
どんどん整備されていきました。

新潟県の発展に大貢献しているのです。


顕著なのはこれ。
右往左往していた信濃川下流の流れがコントロールされて
広々好き放題流れていた川がきちんと流路が定まって
整然と流れるようになったことで川幅が狭まり
活用できる土地がいっぱい生まれたのです。


官公庁街はまさにこうして生まれた場所に造られていたのでした。
写真中央左にあるビルが新潟県庁です。


大河津資料館には大変貴重な資料が収蔵されているのですが
なかでも凄いのがこの模型です。

初代の大河津分水可動堰は自在堰という名前でベアトラップゲートを装備していました。
しかしこれまで日本の河川でここまでの水を流す可動堰は建設されていなかったこと
通水後のメンテナンスの技術が確立していなかったことで自在堰はわずか5年で
陥没してしまうという悲しい結果に至ります。


その陥没した自在堰の後継として設計されたのがこの旧可動堰です。
この模型はその責任者の宮本武之輔が昭和6年に造らせた実物です。


実物!!
物凄く精密な実物!!!


この旧可動堰建設の時に日本の土木に欠かせなくなった鋼矢板が初めて登場します。

自在堰が造られた時には国内ではまだ木製の矢板しか使われていなかったのですが
この工事のために急遽、輸入して工事に使用しました。

鋼矢板を打ち込むことで
隣り合った工事パートで状況が隣に影響しない様にできます。
隣で被害があっても鋼矢板で守っておけば被害を限られた部分に
とどめることができます。


そしてこれが使われていたラルセン式鋼矢板の実物です。
ドイツからの輸入品。


そしてマニアにはたまらないこの銘板。

株式会社 播磨造船所 制作 昭和3年3月

うっとり♪