米子鉱山跡 見学 その3


米子鉱山跡
中外鑛業株式会社

裏にも何か書いていないかとよじ登っていきます。
裏には「米子山カンテラ会」という文字が。

寛永年間より創業運上金を納め幾世代の変遷を経て昭和九年中外鑛業株式
会社の経営となり、社長原安三郎、藤田義明、初代所長安田三吉(初代県経営)
者協会長)高崎丈雄、石和田育雄に係り、鑛山に働く人千名、硫黄釜二十八基を
以て操業蝋石褐鉄を併堀、日本経済に貢献、石油時代の副産物硫黄に押され昭和
三十五年休山後、蝋石部門を続け、昭和四十八年閉山あとも苦楽を共にした友情
の絆は強く昭和五十四年会員三百五十名にて米子カンテラ会を設立、此処に
鑛山跡と、その友情を後世に伝えんとして之を建つ

昭和五十八年七月吉日

と、書かれていました。


この一帯は小学校の跡らしいです。

本当に山の上に在ったも鉱山町。
ここに住んでいた人たちは毎日当たり前のように
あの大瀑布を見て暮らしていたわけですね。


更にハイキングルートを進むと、またとんでもなく
まっ平らに整地された場所に出てきました。


これだけ更地にされているという事は
森林管理用道路で此処まで重機が入っていたという事です。

産業遺構の痕跡ゼロ。
完全な跡地、更地。
周辺の山と違う木々と草。
造成地の気配が漂う広場。


その広場にあった米子硫黄鉱山の説明板です。