別子銅山 端出場 見学 その9

社宅がいくつか残っていたので見に行ってみました。


扉がなくなっているところもあります。

 
階段はもう草に覆われています。
幅は狭く、急勾配です。


お風呂がありました。五右衛門風呂です。一人つかるのが精一杯のサイズ。
でもここはお風呂があるんですから比較的、偉いさんの家だったのでしょう。


対岸の変貌をここから見ていた住人は居なかったと思います。
この周辺の社宅は昭和48年の閉山と同時に、あっという間に取り壊され
撤去されたそうです。

端出場の近くには鹿森社宅群と打除社宅群がありました。
鹿森は276戸、打除は31戸。
この社宅は場所から考えれば鹿森よりは打除に近いですが
どちらなのかは解りません。


鉱石愛好家の先生と待ち合わせの時間になり、慌ててボランティア本部へ
戻ります。先生はふらりと訪れた、ただの観光客に過ぎない私に、別子の
山々で採集したという珍しい鉱石をいっぱい持ってきてくださいました。
(神野先生、本当にありがとうございました!)


散々敷地内で探していたカラミ煉瓦は意外な所にありました。
マイントピア別子の入り口の碑から建物の方へ少し進むと
イメージキャラクターのレリーフをつけた水飲み場があったのです。
そこに使われていました。特大・住友スペシャルカラミ煉瓦。
緑青がうっすらと浮き始めたこの煉瓦に気づいてくれる人は
少ないかもしれません。

最後にどうしても気になった事があるので書いておきます。
愛媛総合科学博物館のカラミ列車の説明板の事です。


説明板にはこの写真と下記のような説明文が記載されていました。

      カラミ列車(SLAG TRAIN)

1921(大正10)年から昭和30年代まで、溶鉱炉から
流出するカラミを液状のままカラミ壷に受け、
海岸の処理場まで牽引して捨てていました。
一列車にカラミ壷2〜3個を連結して、当時の
カラミ運搬に活躍しました。別名お壷列車とも
呼ばれました。

海岸の処理場ってなんですか。
四阪島は大量の鉱滓を海に捨て続けた為に、浅瀬が繋がって
島同士が陸続きになってしまったという経緯がある島です。
地元の方にお話を伺った折、「四阪の側を夜に船で通ると
鉱滓を海に次から次へと捨てているので立ち上る蒸気と
真っ赤なカラミの炎でものすごく綺麗だった」という言葉がありました。

海岸から近い鉱山という事で内陸の選鉱廃滓も海岸に埋め立てて
いたので山奥の鉱山のように鉱滓の堆積場が無いのだといわれます。

坑内水の浄化や精錬の煙害にきちんと立ち向かって功績を上げてきた
のも事実。植林の大切さに一番早く着手して緑を復活させたのも事実。
なのに..なんだかがっかりです。

海に捨てられつづけた鉱滓は燧灘を今でも汚染しています。
新居浜港の底の泥は重金属汚染がひどく、硫化水素の発生で殆ど
生物が居なくなっているという報告もあります。

閉山と同時に社宅を出て行かざるを得なかった人も、長屋暮らしで
お風呂も無かった生活をしていたという人も、過酷な労働に従事して
いた人も、皆その時の暮らしを色々辛かったと話しても、最後には
『でも住友は凄いんですよ』と、誇らしげに話しておられたのを現地で
私は聞きました。

地元の誇りであり、領主であり、現在もその影は新居浜を覆っています。
今更、説明板の書き方一つでどうなるというものでない事も解っていますが
でも...栄光の銅山の歴史なら、なおさらそのまま書いて欲しいと思いました。