雲仙普賢岳
定点 その1
2026/4/21 更新

雲仙普賢岳の火山砂防を勉強するために
大野木場監視所、無人化施工遠隔操作室
土石流被災家屋保存公園と雲仙岳災害記念館をご案内を頂きました。
最後に訪れたのが定点です。

定点は砂防指定地の中で関係者以外立入禁止の区域にあります。

北上木場地区に入りました。
ここから少し進めば
もう人が入ってはいけない区域
無人化建機だけが働く警戒区域になります。

現場には説明板もあります。
通常立ち入り禁止区画ですが
自分と同様に学習の機会を得た人が訪問した際に
こういった詳しい説明があると理解がとても進みます。
関係者以外立入禁止ゲートの内側には
水無川3号砂防堰堤の横に北上木場農業研修所跡と災害記念碑
そこから少し離れたところに定点と焼けた車両が展示されています。

火災サージで焼けた車両が展示されている場所です。

火砕流が発生したのは1991年6月3日16:08です。
錆びて形を留めている部分もわずかになってしまった
被災車両です。

この場所は2022年に整備されました。
最近のことになります。
災害から30年が経過しています。
錆びて原型をわずかにとどめるのみとなった車両を見ると
被災時にこのようになってしまったのかと勘違いしてしまうかもしれませんが
被災直後の車両は焼けていましたが形は残っていました。
大野木場みらい館に展示されていた写真です。
発災翌日のこの場所の写真になります。
かなりの厚さの火山噴出物に覆われていますが
車両や周辺の石垣などの構造物も認識できます。
当日の火砕流本体に埋まったわけではないのです。
火災サージのものすごいエネルギーで吹き飛ばされた車両も
激しく壊れていますが完全に埋まってはいません。

繰り返す噴火と火災流がもたらした火山灰等の噴出物は
少しずつこれらの災害遺物を埋めていきました。
そして30年の時を経てこの姿で掘り出されたのです。
災害直後に、この場所に入って被災した方のご遺体を探してくださったのは
長崎県大村市にある大村駐屯地から駆け付けてくださった
陸上自衛隊 第16普通科連隊と第4施設大隊の皆様でした。
発災翌日から連続して3日にわたり
今、突然に火砕流が発生してもおかしくない最前線で
耐火服を着用して人を探し、現場を記録してくださったのです。

山頂の溶岩ドームが何度も崩壊し火災流が発生し
噴火前にここにあった風景は堆積物の下に完全に埋もれてしまいました。

いま目に見えている場所は元々の地盤の上に170mも堆積した土砂です。
その量は1億7000万m3にもなるとのこと。
この堆積土砂は崩れて積もったものなので固く締め固められているわけではありません。
雨が表面を侵食し、深い浸食谷(ガリー)ができます。
そして大雨の時にはそこから流れ出す土砂で土石流が起きます。

視界に白い三角錐が入ってきました。

GoogleMapにも『定点三角錐』と記されています。
ここが定点です。

この場所は普賢岳山頂が良く見えるという事で
噴火活動が始まってから多くの報道陣がカメラを据えて
火砕流等の火山活動の映像、写真を撮るために
報道のベースキャンプのようになっていた場所でした。
記者をここまで乗せてきたタクシー運転手の方は
火砕流が発生したらすぐ逃げられるよう退路に頭を向けて停車していたといいます。
北上木場地区は避難勧告が出ていたために
多くの住民はこの地から離れていました。
この場所は大丈夫という思いこみがなければ
ここにこんなにたくさんの人が集まることはなかったでしょう。
同じように、火砕流のメカニズムが今ほどに解明されていなかった
どれほど危険なものかを知る人がいなかった頃に
専門家である火山学者一行もこの地に来ていました。
島原市は退去を要請しますが報道陣は耳を貸さないばかりか
避難して無人になっている人家で電話の無断使用や盗電の被害まで発生しました。
そのため警察官が避難勧告の出ている区域を巡回しなくてはならない事になりました。
消防団は地域の安全のために現場に残ります。
ここから少し離れた北上木場農業研修所に詰めていたそうです。
1991年6月3日
その日は朝から雨模様で山頂は雲に隠れていたそうです。
溶岩ドームの崩壊自体は麓から見えなかっただろうと言われています。
雲に遮られて見えない山頂から突然の轟音とともに現れた視野一杯の火災サージ
それが自分たちの命を奪うものであるという恐怖は
残された映像からみじんも感じられず
そこにいた誰もが、自分たちが火災流にのみこまれることを考えていなかったであろうと
推定されています。
がまだすドームで公開されている「雲仙・大火砕流378秒の遺言」と
当日の住民の皆様の様子についての詳細な記録は公開されている
「雲仙火山1991年6月3日の火砕流による人的被害」で確認できます。