地蔵原ダム 見学

2024/1/11 更新

19世紀末、英国が植民地で近代水道を確保するために
たくさんの土堰堤を建設した結果、標準設計が確立されました。

土堰堤はこう作れば安全だという基準です。

国内で、この英国式の土堰堤だと専門家に認定されているのは
津市水道局の片田ダムですが、他にもあるのではと
いくつか候補を愛好家目線で調べていて気になったのが
この地蔵原ダムでした。

古いアースダムを調べるときにまず開くのが「本邦高土堰堤誌」です。
今では国立国会図書館デジタルコレクションでいつでも見ることができます。

そこには地蔵原ダムの諸元がこのように載っていました。

堤体
基礎上天端迄の最大高(尺) 105
基礎上満水面迄の最大高(尺) 97
天端幅(尺) 18
法 上流面 3.0
法 下流面 3.0
堤頂長(間) 51.5
材料 ・・・・
立積(立坪) ・・・・
法面保護 上流面 張石(扣一尺)
法面保護 下流面 なし

ふむふむ。
上下流面の勾配が同じなのは英国標準設計とは違うなぁ。

止水壁
種類 中心壁
上幅(尺) 2.5
下幅(尺) 15
全高(尺) 91
根入(尺) 31.4
材料 玉石混凝土
立積(立坪) ・・・・

あああああ。
コンクリート製の立派な止水壁持っているのか。
これは絶対に英国標準設計じゃないなぁ。


こちらが断面図として掲載されていたものになります。
止水壁は玉石混凝土。貯水池側の石張りは空積。

餘水吐
計画雨量(坪) ・・・・
最大排水量(立法尺/秒) ・・・・
幅員(尺) 80
最大溢流水深(尺) 2.8
形態及特殊設備 溢流堰堤

余水吐はすごく立派なものを持っている様子。

予想に反してかなりオリジナリティの高い土堰堤だという事が
事前調査でわかりました。

という事で英国標準設計ではないという事はわかりましたが
ずっと気になっていたので地蔵原ダムに会いにきました。


現地に行くとこんなフェンスがありました。

車が止まっていたので誰かいらっしゃるのかなと見ていたら
巡視の方がこちらに歩いてこられましたのでご挨拶。

「おはようございます」
「おはようございます。ダム天端にいきたいのですが
下の道で進めばいいんですか?」

「はい。下の道で行ってください。ここはこの先で
もうひとつゲートありますし天端には行けません」
「ありがとうございます♪」
「朝早くから、ダム見に来たんですか」
「はい♪
「どちらから?」
「奈良からです」
「奈良?」

ここからしばらく、奈良のお話をしていました。
お子様が奈良に嫁いだとかでめっちゃローカルな話と
さんふらわぁは便利でいいよねぇという話など。

しばらく雑談した後に、さらっとすごいエピソードが出てきました。

「私はここから少し離れたところに住んでいるんですが
このダムのおかげで今年も水に困らずに米が作れました」
「え、地蔵原ダムのお水って灌漑にも使われているんですか」
「ほんとに助かっているんですよ」

なんとなんと
歴史ある地蔵原ダムのお水と水路は発電だけでなく
地域の灌漑にも協力しているのだそうです。

立梅用水のように幕府直轄で作られた後、被災して
堰堤を作り直す資金に困ったときに
電力会社が非灌漑期に発電するという事で堰堤と水路を修繕して
共用できるようにしたという事例も勉強しているので。

地蔵原ダムの場合はどんな歴史があるんだろうか。
文献を調べねば♪


巡視の方とお別れして天端への道を進んできました。
ここは左岸にある余水吐の上にかかる管理橋。


立派な余水吐です。
奥に見えているのがダムの管理所的な建物かなと思います。


余水吐は階段状になっていたりはせず堤体の直下に向け
すーっと伸びていました。
両岸は石張り護岸。


立入禁止の場所はきちんとフェンスがあります。
間違って入っちゃったというミスが起きないから
フェンスがしっかりしていると安心です。


左岸から見た地蔵原ダム堤体です。

水力発電所データベースによると

堤高 21.82m
堤頂長 95.31m
堤敷幅 109.00m

となっています。
ダム便覧でも数字にほとんど差異はなし。
本邦高土堰堤誌は単位が尺だから計算しないとわからない。


地蔵原貯水池ダム。
ダム湖にはちゃんと天ヶ谷貯水池という名前もついていて
地図にも記されています。


右岸から見た天端と貯水池。
かなり広い天端幅です。


余水吐越流部。
扇形で越流堤はそんなに高くありません。
貯水池と余水吐の境界で、かくっと角度が変わっています。


貯水池側はコンクリート被覆で分割型の水位標も立っていました。


水位標のアップ。

フィルダムの洪水吐は地山の元々の形状を生かすことが多いのですが
ここは貯水池が作られる前から水が涌く場所だったらしいので
少し窪地になっていたのかも。


貯水池はこんな感じで周囲の山はなめらかな稜線だし
とてもほのぼのしています。


天端はとてもゆったりした幅なんですが
この草刈りの仕方はいいなと。

中央だけ草刈りしたら柵とか作らなくても
育った雑草が柵の代わりをしてくれるなと思いました。

もちろん、貯水池側にはちゃんと柵がありますが。


発電所に水を送る取水塔が貯水池左岸側にありました。


一番気になる堤体貯水池側。
本邦高土堰堤誌で空石積と記されていた部分は
改修されてコンクリートできれいに被覆されていました。

貯水池から天端へ繋がる勾配変化は割と緩やか。
そしてここにはwave wallはなかったみたいです。
天端の草の間にもそういう気配がありませんでした。

国会図書館デジタルコレクションで「地蔵原 貯水池」のキーワードで文献を探しました。

ヒットしたのは「九州自然歩道:やまびこの径」という文献でした。
1977年発行。

この中に、法泉寺−地蔵原貯水池という散策ルート紹介で
地域の歴史が記されているのですがここに
“苦難、開田の歴史”という項目があり、地蔵原ダムから北東方向にある
栗原地区のことが紹介されています。


DamMaps地理院地図でみた地蔵原ダムと栗原地区の位置関係です。

地蔵原ダムから水が届く町田発電所ですが、地蔵原ダムの水と
鳴子川にある取水堰堤からの水が一緒になって発電所に届きます。


DamMaps地形図+流域地図でみると
貯水池と栗原地区の間に立ち塞がる“日平山”が障壁となっていたようです。


「九州自然歩道:やまびこの径」の記載内容ですが

“この地区には苦難の開田の歴史がある ”
“ 明治初年、村人たちは約十八`離れた日平山の南、涌蓋山(一五〇〇b)のふもとにわき出る地蔵原の水に目を付けた”
“ しかし、これを通すまいとばかりに日平山が立ちふさがっている”

“ そこで、日平峠にトンネルを掘る事業が始められた”
“第一回は村人たちの勤労奉仕で毎日の生活との二本立て。長引くにつれ生活の不安が高まり、一年で中断 ”

“ しかし水田に対する愛着は強く、今度は村の近くに堰を作った”
“約二fの水田ができ、田んぼに映える水は高原のダイヤモンドのように輝いた ”

この、村の近くに作った堰というのがどのあたりにあったのか
今の地図、、地形図を見てもわからないのですが
米作りのためにとてもとても苦労された事が伝わってきます。

“ 明治三十年、こんどは同地区の岡本一見さんの父親が二千円を出し、技術者を頼んで、再度日平峠のトンネル工事に挑戦した”
“けれども資金が続かず、あとでわかったことだが、全長六`のうち、残りわずか三百bのところで涙をのんだ ”

“その後、地区全体で取り組み、トンネルと水路が完成したのは大正三年の末 ”
“地区の人たちが夢にまで見た水が来て約二十fを開田した ”

“九電町田第一発電所が昭和十五年にできて、その水をもらうようになり、長い水引の歴史は終わった ”

“今も水路の跡が,牧場のあちこちに見られる ”

ということはトンネル式水路自体は村で何とか開削していたわけで
元々の地蔵原の水源は灌漑用水として使われていたけれど
ここに発電用のダムが作られることで貯水量がアップして
より安定的に水が供給されるようになったという事なのだと思います。

素晴らしい♪

文中で出てくる牧場の中に残る水路痕跡がいまでもあるなら
ぜひ見てみたいところです。

地蔵原ダムと鳴子川の取水堰からの水で発電している町田第一発電所は
シリーズ発電所で、町田第二発電所につながっています。
何度も水車を回して電気を生み出しています。

発電所で水車を回して電気を生み出すルートと村人が作った水路で
灌漑用水が安定して確保できるようになったエピソードが素敵です。

歴史ある発電ダムが各地で同じように灌漑に対して
色々力を尽くしておられるのだとか。

あらためて発電ダムのお仕事の深さを学ぶことができた地蔵原ダム見学でした。