高原川の砂防 見学 その3


渡岸用。
ここから降りて対岸に渡りました。

足元はもちろんつるっつる。

洞谷の右岸に移動するとそこにわんこが。

わんわんっわんわんっ

近くに飼い主の方の姿が見えたので安心してわんこの前で硬直。

「こんにちはー」
「こんにちは。写真撮りに来られたんですか?」
「はいー。昨秋に見てあまりの迫力に驚いて夏はどんな顔なのかなって見に来たんです〜」
「ここ、割と写真撮りに来られる方多いですよ」
「え、そうなんですか。やっぱりカッコいいからですかね〜」
「このずーっと山まで続いているのがアートだって言われますね」

お話を聞かせてくれたのは地元の若い奥様でした。
この洞谷階段工は観光客のアートな心をくすぐる物のようです。

いやー
当然だと思う
つーか
やっぱりここカッコいいんだ
コンクリートマニアの心の琴線に触れるだけじゃないんだ
一般の人でも感動して写真撮っちゃうんだ


お話を聞いていたのは右岸にある公園のように整備されたスペースです。
いくつかの石碑が建てられていました。

「これって竣工記念碑ですか」
「はい。昭和54年の災害の後の」
「神通砂防の方で資料見せてもらいましたけど物凄い災害だったみたいですね」

「この下の橋があるでしょう」
「はい、あの黄色の橋ですね」
「あの橋の下で国道との間に通りがあるんですがそこまで川になってしまって」
「土石流ですよね」


昭和54年に起きた洞谷災害について記した物がありました。

昭和五十四年八月二十二日午前七時五十分頃
栃尾地区を中心として襲った集中豪雨により
洞谷上流標高二、一〇〇米附近の崩壊が起因と
なり 栃尾地区に次のような土石流災害が発
生した

 連続雨量ニ三〇ミリ
 時間最大雨量(午前七時〜八時)八三ミリ
 旅行者の死者 二名 行方不明者一名
 住民の負傷者 四名
 橋の流出 三
 中学校体育館半壊
 住家全半壊五十二戸
 体積土砂十万立方米
この災害を八、二二豪雨災害と庄氏洞谷の大巾
な完了復旧計画のもとに岐阜県により同年十
月着工 昭和五十七年掃除儀用ひ四十三億
円を以て完成された

我々はこの地に再び悲惨な災害の無いことを
願地域住民の永遠に安住の地となることを
念じこの碑を建立する

     栃尾区

と、細かく書かれていて災害の概要を詳しく知ることができます。

「古い人はこの谷の水の色を見て危ないかどうか分かるみたいです」
「下の蒲田川では無くてここの水の色ですか」
「そうです。透明なうちは心配ないって。
でもここに濁り水が出始めたら危ないサインだっていいますね」
「ああ、なるほど」

お住まいの方には周知されている土石流発生のサイン。
お母さんが知っているなら子供さんも知っているでしょう。
災害の記憶もまた伝承されていきます。

「小学校でこの場所の事を習うんですよ」
「授業で学習するんですね」


これは「砂防百年記念」と書かれた石碑です。

蒲田川はずっと崩れと闘ってきた場所なのです。

洞谷災害の時に、ここには今と違う形の砂防堰堤があったようです。
神通川水系砂防事務所で公開されている資料の写真をご覧ください。

堰堤と堰堤の間が長く、沢全体を3面張りで護岸していたようです。
しかし、10万m3という凄まじい崩壊土砂が豪雨と共に押し寄せ
既存の堰堤も乗り越えられ何もかもが破壊されました。


その災害から復興するため選ばれた形。
それがこの階段工です。

階段ストレートの一番上に見えている砂防堰堤を含めて
7基の堰堤が崩壊地からの土砂の流出をくい止めています。

今はまだ咲いていませんが毎年7月の頭には紫陽花が両岸を綺麗に彩るそうです。
4月末には桜が縁取ってくれます。

アートとしてとらえられること

それはここが災害から長く月日を重ねたことでもあると思います。
痛々しい姿ではなく落ち着いたコンクリートの色が山と同化しようとしているからだと思います。

新穂高ロープウェイと焼岳、高原川上流エリアに観光に来られる方には是非足を止めてみて頂きたい
たから流路工と洞谷階段工。

でもまだまだこのエリアには勉強しなくてはならない物がたくさんあります。
次は更に上流にある外ヶ谷崩壊地を見学しに行きたいと思います。