大門池の謎

2017/6/11 更新


奈良県が管理する大門ダムです。
できたてほやほや。
平成24年11月に試験湛水を無事に終了し
平成25年6月5日、完成式典が行われたばかりの新しいダムです。


信貴山 朝護孫子寺の入口、大迫力の白虎の像があるところです。
敷地の横がダム湖です。

ダム湖に赤い橋が二つ架かっています。


ダム湖の上流側に架かっているのは開運橋という橋です。
信貴山朝護孫寺のHPにも紹介がありますが
昭和六年に架けられた上路カンチレバー橋で
同形式の橋では現存する日本最古の橋だそうです。
平成19年7月に国の登録有形文化財になっていて
この橋の方が有名かも。


県道が通っているアーチ橋の方は信貴大橋という橋です。

通常、橋の親柱には片側に橋の名前や竣工年
もう片方にはその橋が架かっている河川の名前が書かれていることが多いです。


信貴大橋の親柱には川の名前ではなくこのように
“大門池”と書かれています。
この橋の下には川ではなく池があったのです。


信貴大橋の上から大門ダムとダム湖を見下ろしたところです。
写っている網場の辺りと思われますが
ここに古い土堰堤があったのです。

大門池というアースダムでした。

この大門池についてwebで色んな話が出ていて
どれが本当の話なのかわからなくなっています。

なんでも
ここにあった大門池の堰堤は
・過去に世界一の堤高を誇っていた歴史もあるアースダムだった
・スペインのアルマンサダムが竣工するまでアースダムで堤高世界一だった
・その堤高は32.0mだった
・震度5以上の地震で堤体が破損する恐れがあり下流に大門ダムが造られた
というような話でした。

ダム工学会のお世話になっている偉い先生が
この大門池について調査されていて
どうもあちこちに出回っている情報に信ぴょう性がないので
地の利を生かしてちょっと調べてみては?
と、私が飛びつきそうな課題を下さったのです。

飛びついた♪飛びついた♪


左岸側から見た大門ダムと信貴大橋と開運橋です。
この立地で信貴大橋の下あたりに大門池の堤体はありました。

地形を見る限り
どうも自分にはここに堤高32mもあるアースダムが
造られていたように見えません。

◆ ◆


こういうときは古い文献を探すに限ります。
頼りになるのは「日本ダム台帳」。


表紙などをめくって一番最初のページ。



大門池が載っていました。

なんと1128年竣工。
そして堤高が32mで堤頂長は79m
“TE”ですからアースダムです。

堤高32mというのはここから出ていたのか…。

◆ ◆

でもなんか納得がいかないのでさらに色々調べました。

奈良県の平成21年10月6日(火)
予算審査特別委員会記録<土木部・まちづくり推進局・水道局>

の議事録をみると
大門池の堤高はある文献に18mという記載があるらしく
18mで発言されている方はいるし
奈良県の方は27mであると仰っているし
もうどれがホントかわからない。

予想されるのはとにかく古いため池で
何度も嵩上げなり補修が行われてきて
今となってはどこが堤体と地山の境かわからなくなっている
というありがちな話なのかと思います。
これは仕方がない。

近畿地方整備局河川部様の発行している
「かわの情報誌 さらさ 2013年 秋号」
の16-17ページに大門ダム完成の記事が掲載されていました。
その中に出てくる図を見ていろいろ納得。


大門ダムの堤高は35.4mです。

うーん
これは
絶対に堤高32.0mは無いよね
貯水池の水深10mちょっとだよね
32m説って関係ない下の斜面まで足して計測してない?
と自分の中では15.0mくらいの堰堤ではないかという気持ちが。

◆ ◆


造られた時代があまりにも古くて堤高がはっきりしないダムの
最たる例がやはり奈良県にあります。
奈良市の蛙股池です。

こちらはあの大阪府の狭山池より数年古い事がはっきりしているんですが
奈良市が17.0mと主張(根拠はダム台帳による)しているのに
奈良県は14.0mとして譲らない。

まぁ、堤体に道路は走ってますし直下に家と畑まで出来て
もう境界が判らないのは十分解るんですけど…。

堤高15.0m以上になると色々法律があって管理する時に
対応、対策が大変になるというのは分かるんですけど。
でも狭山池より古い点はちゃんとPRするべきと思います。

◆ ◆

とにかく古い文献を調べる事が大事なので
以前見つけたこの文献を。


「本邦高土堰堤誌」
農業土木学会 編
なんと昭和9年に発行された本です。


大門池あったー!!
ちゃんと載ってたー!!


明治22年に改修しているのか。
中央に刃金土をちゃんと入れてある図だから
これは明治22年に改修された時の図で間違いなさそう。
800年以上前の土堰堤にセンターコアは無い。
均一フィル。

というか改修工事で堤体全部とって作り直したとか言うならともかく
嵩上げしただけだったらこんな形に刃金土(センターコア)はいらないと思うし
専門家の先生もこれはたぶん違うと思うという分析をくださいました。
アースダムの嵩上げは狭山池みたいにもりもりどんどん盛られていくのが普通。

そして堤高は75尺。
Google先生によると75尺は22.727m
約23m・・・。

そしてもう一点大切なことが。
大門池は1128年にできたとされていますがこの文献には
“傳安政年間”という記載があるのです。
1854年から1860年までの間に造られたものらしいという事です。
平安時代の1128年に比べたら江戸時代末期で相当、新しい。

◆ ◆

三郷町町史には大門池には何度か改修工事が行われて
灌漑用水源として大事にされてきたことが書いてあるそうなので
奈良県図書情報館に閲覧しに行きました。

しかし、明治19〜20年頃に容量アップのために嵩上げを協議し
大阪府知事に計画を申請し、その後、嵩上げ工事が行われた
という記載くらいしか見つけられませんでした。

この嵩上げ工事いうのが『本邦高土堰堤誌』に記載のある
明治22年の改修で間違いないかと思います。

また、三郷町にはいくつもの溜池があったそうですが
山腹斜面や丘陵地の浸食谷を利用した山池ばかりで
大平上溜池というものが水深32mで最大
その他は水深10m内外であるとも書かれていました。

◆ ◆

色々調べてみましたが
あちこちで大門池について書かれている文章の引用先である
wikipediaの記事ですが

“1128年(大治3年)に大和国(奈良県)に建設された大門池は
高さ32.0メートルと当時としては世界一の高さであった”
 ( ↑ 安政年間に造られたとしたら700年以上差があることに )

“14世紀末に建設されたアルマンサダムはそれまで世界一であった
大門池の高さを塗り替えて世界一に躍り出た”
 ( ↑ この“大門池”が中国の“グコーダム”になっている文章はある)

というのは他の文献などで似た記述をしてあるものも見つかりませんでしたし
もしかしたら堤高32mという資料一つを見て筆者が推測されたことを記載されたのか
こういう発言をしていた方がどこかにいたのかもしれないなと思いました。

たしかにあれだけしっかり32mという記載が
研究の基礎になるような資料にばっちり書かれているんですから
勘違いするのも仕方ないと思います。
自分だってそういう間違いやらかしそうです。

自分も今回、ダム工学会のお世話になっている偉い先生に
この疑問を投げかけられなかったら
現地に行ったことあるくせに全くちっとも気付きもしませんでしたし。

◆ ◆

ここまで調べた内容をいつもお世話になっている
ダム工学会の方に見てもらったところ
 ↓ こういう事じゃないでしょうか?

という回答を頂きました。

黄緑色に塗られたあたりが堤体。
下流下がりの山池。

あ、これなら色々な文献の数字ともそんなに誤差がなさそう
とても自然で納得…。

古い文献検索と現地で見た風景
しっかり自分の頭で組み立てる事
エンジニアの先生は現地に行かなくても
文字と地図データだけでおかしい事に気づいておられる。

その域に何年かかっても到達できそうにないですが
自分は素人なのでとにかく地道にきっちり調べるのが勉強になるし
何よりそういう作業大好きなので。

という勉強ができた大門池の謎だったのでした。