大河津分水 自在堰

2022/4/11 更新


越後平野の蓋と呼ばれる弥彦山のある弥彦山塊。
そこから見た越後平野の写真をダム仲間の夜鷹様からお借りしました。

見渡す限りの平野がこの美しい水田となるのに半世紀近くかかりました。
湿田から乾田への移行が進み日本有数の米どころとなるのにそれだけの期間が必要でした。

周囲の人に聞きました

 “新潟”と言ったら何を思い浮かべる?    

それについての答えはみんな同じでした。

 “お米!!”

新津油田や燕三条の金属産業や佐渡の金山
日本一のスノーワーカーを押しのけて
新潟=米 それも美味な米でした。


1922年に通水し運用を開始した大河津分水。
信濃川の河口から58km地点で日本海に向けて
洪水をショートカットさせるために作られた分水路です。

大河津分水は越後平野の風土を変えました。

大河津分水は越後平野を信濃川の恩恵を最大限に受けられる土地に変えたのです。

この事業による恩恵と環境変化は大変大きく
流量がコントロールされた信濃川下流では灌漑排水の整備された水田が生まれ
今まで増水するから使えなかった土地が官公庁街となり
水没するから通せなかった場所に鉄道や道路が通りました。

しかしあまりも大きな環境変化であったために河口にある新潟港では
流量低下による堆砂が進行、新潟西港と新潟海岸では
防波堤や地盤沈下といった他の要因も関わってのことですが
浸食が進み、養浜工事が必要な事態になりました

新潟海岸の浸食については大河津分水が計画されたときに
すでに来日していた海外技術者から指摘も受けていました。

それでも洪水の被害はあまりにも深刻であり必要であるということで
建設がすすめられたのが大河津分水です。
越後平野が劇的に変わったのです。

100年前に完成したこの壮大な計画。
海外からの大型機械を輸入して工事を進めた日本初のプロジェクトであり
これ以降の国内各所の土木工事に大きな影響を与えた事業になります。


これは信濃川大河津資料館で見せていただいた写真です。
広い川に並ぶ船のような背の低いゲートピアです。
ピアの上には鉄塔が設けられ対岸に送電しているようです。
扉体の上を水が越流する設計なので扉体が見えていません。

竣工時に大河津分水可動堰に備え付けられていたゲートは
国内で他に例のない特殊な形状でした。

自在堰と呼ばれていたそれはベアトラップゲート“bear-trap gate”というもので
海外の事例をもとに改良された特殊なものでした。

昭和中期〜平成ではこういった川幅の広い所に頭首工、取水堰を設ける際には
巨大なピアを並べて大きな巻揚機を格納するゲートハウスを乗せるという形が多く
見慣れた形ととてもかけ離れているのでいったいどういう構造なのかと
この写真を見た時からこの自在堰というものが心から離れませんでした。


その自在堰を設計したのが岡部三郎技師です。
こちらも大河津資料館で展示されている岡部三郎技師のプロフィールです。


大河津資料館で展示されている自在堰の図面です。
左下の隅に岡部三郎技師の直筆サイン入り。

100年前、これほどの川幅に
これほどの大水量が来る本川に可動堰を建設するということは
日本において、まだ技術的に確立されておらず事例も少なかったのです。
そしてそれの水門の開閉操作はすべて人力でした。
出水時には大変な危険を伴う作業であったのです。


先例として建設されていた琵琶湖の出口の南郷洗堰。
1905年(明治38年)竣工です。
現在は引退してすぐ下流の瀬田川洗堰に役割を譲り、産業遺構として残っています。

32門の水門が並び、径間は3.6mでした。


南郷洗堰は木製の角材を使用した角落とし式でした。
これが実際に使われていた角落とし材です。
「8寸角・14尺」の角材です。
これを人力で戸溝にはめ込んだり外したりしていたので
全開から全閉までとんでもなく時間がかかりました。

全閉に要する時間は48時間
全開にするのにも24時間もかかったのです。
◆ ◆

淀川の長柄起伏堰では楯堰が完成していました。
1914年(大正3年)竣工。

ただ、この盾堰が完成する前に長柄仮堰というものが
明治44年にできているのでこれが二代目という扱い。


三代目は初代の上流に長柄橋の架け替えと合わせて
長柄可動堰としてシリンドリカルローラーゲートを3門備えて1935年(昭和10年)に竣工。

昭和39年に嵩上げが行われて改築長柄可動堰になって四代目。
現在は五代目の淀川大堰になっています。


こちらは淀川資料館に展示されている二代目・長柄起伏堰の模型です。

その操作は人力で83枚の木製扉を5人がかりで船に乗って5時間もかかるという
一枚ずつ起こしたり寝かせたりの作業で時間も労力も大変なものでした。


シャノアン・ウィケット式の堰であるということが操作記録に残っていました。

水量をコントロールするためには可動堰が必要です。
しかし、時間と人手を要し、時に危険を伴う操作をなんとかできないかと
考えるのはとても自然なことだと思います。


そして大河津分水に最初に採用された自在堰は水圧・空気圧・油圧を使って
自動で水門を開閉するという先進的な仕組でした。
その選定に至った論文が残されています。


土木学会付属土木図書館のアーカイブです。


ここになぜ、“bear-trap gate”が採用となったかが記されているのです。
当時、世界各地で採用されている色々なゲートを比較しているのが
もうわくわくしてしまいます。

可動堰を運轉の方法に依りて分類すれば
第一類は人力、汽力または電力等の外力を加へて運轉するもの
第二類は自然水位差を利用し自力にて開閉するものにして
第三類は自重に対抗するのみならず最大水壓力までも平衡し得べき
カウンターウェイトを有する半自動的のもの


第一類に属するものは

bridge dam
sluice gate
segmental gate
rolling dam
flash board
wicket weir
stop log
needle weir
A-frame weir and butterfly weir

第二類に属するものは
sector gate
bear trap weir and drum weir

第三類に属するものは
Buchler's automatic gate
hinged weir

ここに紹介されているゲートと同型のものを全部見ているわけではありませんし
実物、写真、図面のいずれも見ていないとさっぱりイメージできないので
どこかに資料がないかと必死で探しました。

◆ ◆


ダム技術センターにありましたこちらの禁帯出の超、貴重な古書。
1941年(昭和16年)に発行された本です。

国会図書館デジタルコレクションには収録されています。
簡単におうちで見られるかなと思ったら国会図書館の館内公開でした。
残念。


この貴重な書に全部の設計図が載っていたのでようやく理解できました。


ベアトラップゲートについても詳しく載っています。
やったやった♪


可動堰を運転方法と開閉方向の二つで大別してあるのですが
その区分は岡部三郎技師の論文による、と書いてあります。
だから項目がばっちりかぶっているんですね。
素晴らしい♪


岡部三郎技師の分類より紹介されているものは多かったのですが
知りたいのは岡部三郎技師の論文に出てくるゲートについてですから
それらが日本語に訳されるとどうなるのかというのをまず整理。


一番理解困難だった蝶形堰です。


説明を読む限りバタフライバルブと同じ物のようでした。

しかし、縦軸でなく横軸(水平軸)で水圧を利用して
自動的に開閉できる物も当時すでに開発されていたようです。
この頃、色々な自動で動くゲートが開発されています。
千苅ダムの竣工時に設置されていたフロート式チェーンローラーゲート
“レイノールド氏専売ノ自働扉門”もそうですが
大きなダムが造られるようになっていくに従ってゲートの数が増えて
ゲート開閉の省力化は開閉に要する時間に直結しますし
ほんとに重要な問題だったのだなと思います。

蝶番堰と書かれているものには写真が付いていました。
石巻市の北上川河口付近で頑張っていた初代・月濱第一水門です。
2006年に代替わりして引き上げ式のローラーゲートとフロート起伏ゲート装備の二代目になりました。
更新工事の資料では“鋼製バランスゲート”と記載されていますが
初代はこの写真にあるように“鐡製蝶番堰(手捲)”と呼ばれていたので
岡部三郎技師の論文でいうところのhinged weir 蝶番堰とはこれを指しているわけです。

同じ第三類に分類されているブュユフラー自動扉というものは
カウンターウェイトの半自動のものでbalance gateの一種とされていますので
同じ仲間になるかと思われます。

月濱第一水門の初代ゲートは土木遺産として一門だけ残してもらっているそうで
現地に展示されているということなので東北に行く機会を作ってぜひ見に行きたいです。
北上川水系は行きたい所が多すぎる…。

淀川の長柄起伏堰で採用されていた盾堰です。
長柄可動堰でも採用されたシャノアン堰についての説明です。
盾堰で一番メジャーだった型式で
パスコー堰の元になった形式でもあるそうです。

盾堰の肝になる部分がこの支承。

水門を勉強し始めて最初に躓いて混乱したセクターゲートの説明です。
素晴らしい。

尼ロックをはじめ、港湾部で閘門によく利用されるセクターゲートが
現在見られる実物の主流なので“セクターゲートは横倒しのラジアルゲート”
だと思い込んだのですが、アームが水没するし色々計算が別物です。
閘門などでよく採用されるのは縦軸セクターゲートなので
そう呼んだらいいのかと思いましたが元祖の横軸セクターゲートの数が少ないので
乗っ取られた感もあります。
ゲートを開ける動作がゲートの引き上げで扉体の下から水を出すラジアルゲートに対して
ゲートを開ける動作がゲートを下げる事で扉体の上から水を流す元祖セクターゲートです。

今渡ダムに残っているのが元祖セクターゲートです。
円弧状スキンプレート+越流面用スキンプレートに加えて両側に導流壁板が基本構造。
国内最初の事例は笠置ダムなのだそうです。

A構堰というのもよく解らなかったのですが
考え方は針状堰と同じで、扉版と堰柱を兼ねた部材を並列して並べて
水を堰止めるというものでした。
上の写真が操作の様子になります。


そして今回の主役♪
起伏堰、ベアトラップゲートです。


米国で発達した型式のようでいくつも種類がありました。
ベアトラップゲートの特徴として
“何れも水渠から扉版内側に導入,排出することによって自動的に起伏せしめる”
とあります。


そして岡部三郎技師の設計した改良型ベアトラップゲートがこれです。
ベアトラップゲートでメジャーだったホワイト堰というものを改良したものです。

中間扉と透過構造部分があるというのが他のベアトラップゲートとは異なる思想です。

上流の扉体と下流の扉体の接続部が他のベアトラップゲートより低い位置にあり
上流扉には透過構造部分があり、水流が滑らかに堰を超えて流れて行く設計です。


ベアトラップゲートの動作については大河津資料館のこの展示物が
一番わかりやすいのでぜひ、これを見に行ってほしいです。


他のゲートについても特徴とその欠点を書き出してあるのですが
ベアトラップゲートについての記載はこうなっています。

短時間に操作完了できるので頻繁な操作にも適している
川底に格納されるようにぺたんこにできるのでいろいろ流れてくるものがあるところに適当
大量の水をコントロール可能
ほかの型式に比べて設備費と維持費がかからない
という点が評価されています。

欠点としては
上下流の水位差が小さい場合は空気を送り込む設備が必要になることがある
構造が複雑
扉体の重量が比較的大きいので工費がかさむ

この部分の記載は岡部三郎技師の論文とほぼ同じでした。

色々な型式のゲートについても
それぞれの特性を比較して選定されたのです。

◆ ◆

しかし、自在堰は悲劇的な経過をたどりました。

通水後、堰の直下流をはじめ、分水路内のあちこちで河床の低下が発生したのです。
設計や施工が悪かったわけではありません。
信濃川の洪水が全部流れ下ること、その水の勢いで河床がえぐられていくことが原因でした。
自在堰の直下でも洗掘が始まりました。

そして通水から5年後の昭和2年6月24日
突然、自在堰のピアが陥没したのです。


自在堰が陥没したことで上流からの水がショートカットで分水路に流れ
信濃川洗堰から新潟港までの区間で水量が激減しました。
河川流量が減少すれば潮汐で比重の重い海水が川を遡ります。
下流では飲料水に塩気が混じり飲めなくなるという被害も出ました。


陥没の状況図です。

ピアが上流側に倒れています。
洗掘は下流で起きているのでピアは下流に倒れるのではないかと
単純に考えてしまい、なぜこんな形に陥没が起きたのか
なかなか理解できませんでした。

大河津分水可動堰付近の川幅は約720m。
そのうち、左岸側は固定堰です。
可動堰である自在堰は右岸側にありました。

最初に陥没したのは固定堰側の3基のピアでした。
その後、出水があったことで右岸堤防側の2基を残してすべての自在堰は
傾いて河床とともに沈下し水位調節の機能を失ったそうです。

大河津分水は日本の土木史に残る大事業ですから
そこで起きた事故についても、当時はもちろん、その後も
研究がすすめられていてそれらの論文、報告書は数多く残っています。

とてもわかりやすいのがこちらの研究論文です。
「信濃川大河津分水旧可動堰の基礎構造と空洞発生原因の調査」

事故の原因はすべてこの洗掘、河床の低下でした。
洗掘により、上下流の水位差が大きくなり、その力はどんどん大きくなります。

堰の下流で洗掘が起きたことにより、基礎部分が下流側に滑ったのです。
それに引っ張られる形でピアが傾いたので上流側に倒れているのでした。

この事故の後、二代目の可動堰設計に携わった宮本武之輔技師は
洗掘が最大の原因であるということの他に
・止水目的で堰の上下流に打ち込まれた木製の矢板の長さが4.5mであったのに対し
洗掘の深さが9mに達していたこと
・木製の矢板は(鋼製の矢板と比較して)隙間から浸透を許しやすいこと
・水射工法で打設したこと
などの理由で堰の基礎の下にあった砂が移動したためと分析しています。

100年前に通水した大河津分水
竣工して5年目に訪れた悲劇、自在堰の陥没事故
国の威信をかけた二代目可動堰の着工
完成寸前に訪れた洪水と下流を守るために仮締め切りを切った判断
遅れはしたものの完成した可動堰

事業の完成までにはいくつもの苦難があったのです。


旧・可動堰の横に立てられたこの石碑。
信濃川補修工事竣工記念碑。
自在堰のピアの形をそのままに自在堰に用いられていた石材で作られた碑です。

この記念碑の上部に掲げられた言葉
『万象に天意を覚る者は幸いなり 人類の為 国の為』
青山士技師の言葉です。

この言葉の解釈は個人に任せればと青山技師は生前に仰っていたとの事。
受け取り方は人それぞれです。
さまざまな解釈が世に出ています。

自在堰が大好きな自分は
ここにあった自在堰のピアを模して造られたこの碑を見て
そこに掲げられた言葉を読んで
補修工事を進めた宮本武之輔技師と青山士技師が
自在堰を責めていたのではないと感じました。

自在堰を作るときに予算の制約があり
岡部三郎技師が本当は輸入物の鋼製矢板を使いたかったけれど
使えなかったことを知っていた両技師が自在堰を否定するのであれば
こんな立派なモニュメントとして残すはずがないと思ったのです。

陥没事故を忘れないための戒めという意味合いでつくられたものではないと思います。
なぜ事故が起きたかを明らかにし同じ轍を踏まないために何が必要か
前に進むための礎として自在堰を見ていたからこそ造られたのだと思うのです。

この地点の河道と河床の地質、流量
それらに対して自在堰、ベアトラップゲートは適していなかったのだということ
扉体の操作が自動で開閉が容易であるけれど
扉体の重量は大きく、それを支える支柱沓は繊細な構造で
米国のような良質で堅固な岩盤の川であれば
洗掘が起きにくい強固な河床であれば
そして信濃川のような大河川でなければ
問題は起きていなかったであろうと思われます。

信濃川のこの地点はベアトラップゲートを支えられる河床ではなかったのです。


その場所に
安全な構造物を作ること
与えられた役目をその構造物が全うするために必要なものを設計すること
そのために必要な材料をそろえること
それらの一つが欠けてもいけないのです。

予算が確保できず必要な材料が揃えられないなら
設計が優秀でもそれが安全に長く使えるものとして造り上げられないなら
造ってはいけないということなのだと
お世話になっているエンジニアの先生から聞いて泣きそうになりました。

ベアトラップゲートが悪かったわけじゃないのです
この場所に適していなかったのです。
なのに世の人々は堰が悪かったからだという論調になり
ベアトラップゲートは日本でその後、造られないゲートとなってしまいました。

でも自在堰に込められていたのは
堰の開閉に大変な労力を費やしていた当時の人の苦労を
危険な中、作業しなくてはならないことを何とか解消したい
そして下流に分水の恩恵を届けたいという気持であったと思うので

ここに適さなかったというのは事実ですが
それらすべてを耳にしても目にしても
やっぱり自分はこのベアトラップゲート、自在堰が大好きです。